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羽柴秀吉が実質的な天下人に! 織田信雄が危機を感じた背景とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
羽柴(豊臣)秀吉。(提供:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」は、羽柴軍と織田・徳川連合軍との戦いが描かれていた。その背後にあったのは、織田信雄の羽柴秀吉に対する危機感にあった。今回は、その点について検証してみよう。

 天正11年(1583)4月、羽柴秀吉は織田信孝(信雄の弟)を死に追いやった。信雄は伊勢制圧や岐阜への攻撃で功績があったものの、やはり存在感は薄いと言わざるを得ない。

 それは、織田家にとって、肝心かなめの京都支配にあらわれている。戦後の5月21日、信雄は前田玄以に3ヵ条にわたる書状を送った(「古簡雑纂」)。概要は、次のとおりである。

 1ヵ条目は、玄以を京都奉行職に任じたが、もし難題が生じたときは、秀吉に尋ね指示に従うようにと書かれている。2ヵ条目は、洛中の用事については、信雄の墨付(書状)で行うようにと指示されている。

 つまり、洛中の支配は、信雄が任じた玄以が担当するということになっているが、秀吉の役割が期待されている点に注意を払うべきであろう。

 事実、同年6月、秀吉は洛中洛外に掟を下した(「今村具雄氏所蔵文書」)。全部で7ヵ条で構成されており、それぞれの概要は次のとおりである。

①新たに諸役を掛けてはいけないこと。

②喧嘩口論は、双方を処罰すること。

③失火、付火は罪科に処すべきこと。

④奉公人が町人に狼藉を働いた場合は、処罰すること。

⑤博打の禁止。

⑥秀吉が承知しない牢人の居住禁止。

⑦奉行人を差し置いての訴訟の禁止。

 信雄は玄以を京都奉行に指名したが、実質的にその役割を担ったのは、秀吉だったのは明らかである。

 同時に秀吉は、①洛中洛外で奉公人が狼藉を働いた場合は、主に断ることなく処罰すること、②自分の非を認めない者については糾明を遂げること、③裁判で片方に味方することを禁止し、よく言い聞かせること、の3ヵ条にわたって玄以に指示を行った(『本圀寺宝蔵目録』)。

 以上の内容は、洛中洛外へ掟を補足した指示になる。つまり、信雄は玄以に京都奉行職に任じたが、実際は洛中洛外における行政経験が豊富な秀吉を頼らざるを得なかったのである。

 朝廷が秀吉に使者を派遣したのには、そうした意味があったと考えられ、京都支配を信雄ではなく秀吉に期待した可能性がある。信雄は織田家の実質的な家督継承者とはいえ、秀吉の後塵を拝することになった。

 同年6月17日、佐々成政は新発田重家に書状を送り、信雄が信長のときのように変わりなく天下を差配すること、そして秀吉がそれを補佐することが伝えられた(「石坂孫四郎氏所蔵文書」)。信雄は暫定的に織田家の家督を継いだものの、経験豊富な秀吉の補佐が必要だった。

 しかし、補佐とはあくまで形式的なことであって、実際には多くの政務が秀吉に委ねられた。秀吉は、実質的な天下人だった。それゆえ、信雄は秀吉に対する警戒感をあらわにしたのである。

主要参考文献

渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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