日本の夏 京都の夏 床の夏
鴨川の水は、その昔から山紫水明と言って清く澄んで美しいのが有名で、京美人はこの鴨川の水で化粧するので美しいと言われてきた。
「鴨川々々と何も深く考えないで、いる人が多いが、鴨川は浅瀬の水であるのが生命だ。<中略>人の美は女にあり、女装美の中心は、帯にある。町の美は川にあり、川の美は浅瀬の急流にある。その権化たる鴨川を有するのは京の誇りだ」と書いたのは竹内栖鳳である。
いつの時代も京都と鴨川は共にあった。逆にいうと京都に鴨川がなかったらこの街の魅力も幾分と目減りしたに違いない。
そんな鴨川も昔からここにあったわけではないとう説もある。今の堀川辺を流れていた鴨川が、平安京が出来る時に、当時の皇居のあった大宮通りまで二丁しか離れてなく、降雨による浸水を避けるため、はるか十数丁東の今の鴨川に筋を変えたのだった。桟敷ヶ岳からの水流を上賀茂の御園橋から鴨大橋の方に向けて流し、それが高野川と合流して改めて鴨川となって現在の川の大凡の原型となったという。
当時の川幅随分広く、東岸は今と同じ川端通り辺りだが、西は寺町通りぐらいまでが川原だった。それでも大雨の時は、東岸は二丁程東、西は今の柳馬場辺りまで浸水したという。度重なる水害に、白河法皇が「是ぞわが心にかなわぬもの、双六の賽、山法師、そして賀茂河の水」と嘆いたという記述などもある。
京都の街にとって大きな変革のきっかけとなったのは豊臣秀吉で、彼は、細川幽斉や前田玄以らに命じて都の周りに土居や、諸説あるが、奈良の大仏より大きな大仏殿を創りたいと、その建材を運ぶために高瀬川を造らせたと言われている。
高瀬川の東に石垣を築いて今の鴨川の川幅にしたのは、1669年(寛文8年から10年)前後とされる。この石垣ができて、高瀬川と鴨川の間に中ノ島ができ、石垣の上に土を盛り民家などが立ち並ぶようになった。今の鴨川沿いの繁華街の原型でもある。
京都は、夏になるとこの街の風物詩と化した納涼床が現れる。今では床といえば、鴨川に沿ってその西側を流れるみそそぎ川の上だけに掛かる高床式が当たり前になっているが、この様式になったのは大正4(1915)年と大凡100年ほど前からのことである。
大正4(1915)年の京阪電車鴨東線(今ではもう地下に潜っている)の延長、明治27(1894)年の鴨川運河開削や大正時代の治水工事のため姿を消したが、それまでは、鴨川の東西両岸に高床式の床が出ていて、それだけではなく川の中央の砂洲には床机、さらには三条大橋の下には河原から張り出した床が出ていた。
鴨川の床が最も賑わっていたのはおそらくその前の江戸時代であったに違いない。石垣や堤が整備された時期で、時期を同じくして付近に花街も形成され、歓楽街になった頃でもある。祇園祭の神輿洗いでは見世物客で大賑わい、江戸時代中期には約400件までと茶屋が床机の数を決めるなど、組織化も進んでいた程であった。当時の床は、浅瀬に床机を置いたり、鴨川の砂洲に床机を並べたり、張り出し式のものもあったりと形式も多様で、それらを総称して「河原の涼み」と呼ばれた。
納涼床はそもそも、戦乱後、豊臣秀吉の三条橋と五条橋(今の団栗橋)を架け替えした辺りから、鴨川の川原で見世物や物売りで賑わい、それに伴い商人が見世物席を出し、茶屋ができるようになったのがはじまりである。
「涼」とは三水編に京と書く。
字面からしても、それはここ京都鴨川の納涼床で過ごす時間そのものではあるまいか。時間軸を超えて先祖らと同じ恵みを分かち合う私たち。この夏、床で夕涼みしながら今までこの街がこの川と共に歩んで来た歴史に浸るほど贅沢はあるまい。
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