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ついに大坂夏の陣終結。豊臣秀頼と淀殿の最期はいかなるものだったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
大阪(坂)城。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、いよいよ大坂夏の陣が終結し、豊臣家は滅亡した。豊臣秀頼と淀殿の最期はいかなるものだったのか、詳しく取り上げることにしよう。

 慶長20年(1615)5月8日、秀頼と淀殿は大坂城内で自害した。大野治長、速水守久らの配下の武将や女中らも、これに殉じたと伝える。果たして、この話は本当なのだろうか。彼らの状況は、『本光国師日記』に次のように記されている。

大坂城中の唐物倉(からものぐら)に秀頼ならびに御袋(淀殿)、大野修理(治長)、速水甲斐守(守久)以下、付女中衆が数多く籠もり降参してきた。
 井伊掃部(直孝)、安藤対馬(守重)が検使として詰め、倉へ鉄砲を撃ち掛け、皆殺しにし火を掛けた。

 この記述を見ると、秀頼らは追い詰められて唐物倉に籠もったが、降参が受け入れられず、結局は井伊直孝らの鉄砲で撃たれ死んだという。自害したのではなく、鉄砲で射殺されたようである。

 では、ほかの記録類には、どのように書かれているのか。山科言緒の日記『言緒卿記』には、秀頼が矢倉の脇におり、淀殿の次に詫び言(助命嘆願の言葉)を申したという。ところが、徳川方の軍勢が押し寄せたので、そのまま切腹したと書かれている。

 『春日社司祐範記』には、城内の千畳敷において秀頼・淀殿以下が自害すると、城に火が掛けられたと記す。名物の茶道具も焼けてしまったという。

 城内の千畳敷で彼らが自害したということは、『薩藩旧記雑録後編』所収文書にも同じ記述がある。ちなみに、『舜旧記』にも秀頼・淀殿が自害したと書かれている。

 ここまでの記録から考えると、真相としては大坂城の千畳敷で亡くなった可能性が高いといえよう。ただ、『本光国師日記』の記述は、切腹すら許されない、豊臣家の無残な姿をあえて強調したかったのかもしれない。

 いずれにしても情報は交錯しており、戦場という特殊な状況下では、正確に2人の最期の状況が伝わらなかった可能性がある。とはいえ、実際は自害した可能性が高い。

 秀頼と淀殿が自害すると、大坂城は紅蓮の炎に包まれて崩れ落ちた。豊国社の神龍院梵舜(しんりゅういんぼんしゅん)は自身の日記『舜旧記』の中で、大坂城から立ち上る煙を確認している。

 また、『言緒卿記』では、大坂の町・城が残らず焼けてしまったと書き留められている。天守を覆った炎は、城下の町々までをも包み込んだのである。

 秀頼の墓所は養源院(京都市東山区)などにあり、玉造稲荷神社(大阪市中央区)には秀頼の銅像が建立された。豊國神社(大阪市中央区)は、父の秀吉や叔父の秀長と共に、秀頼も祭神として祀っている。淀殿の墓は、養源院、太融寺(大阪市北区)にある。

主要参考文献

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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