【戦国こぼれ話】文禄・慶長の役で、日本軍が行った現地での人の連れ去りや鼻削ぎを検証する
現在でも世界のどこかで戦争が行われ、多くの人々が被害を受けている。実は約430年前の文禄・慶長の役においても、悲惨な出来事があった。その蛮行を検証することにしよう。
■佐竹氏の家臣・平塚滝俊の蛮行
文禄元年(1592)、日本軍が朝鮮半島に上陸すると、佐竹氏の家臣・平塚滝俊が肥前名護屋城(佐賀県唐津市)で留守を務める小野田備前守に書状を送った。書状の概要を次に示しておきたい。
高麗で二・三の城を攻め落とし、男女を生け捕りにして、日々を送ってきた。(朝鮮人の)首を積んだ船があるようだが、私は見たことがない。男女を積んだ船は見た。
首が秀吉のいる肥前名護屋城に送られたのは、出陣した武将が軍功を認めてもらうためである。いわゆる首実検だった。おそらく船が満杯の状態で運ばれたのであろうが、実におびただしい分量になったことが看取される。
これだけの分量になると、本当に正しい検分ができたのかどうか、非常に疑問である。参考までにいうと、首は非常に重量があるので、のちに首でなく耳や鼻が持ち帰られた。それを供養したのが耳塚(鼻塚)であり、京都市東山区の豊国神社前にある。
■日本軍の残酷な行為
ところで、耳や鼻を削いで持ち帰る際、日本軍により残酷な行為が行われていた。慶長3年(1598)10月に泗川新城で戦いが行われると、島津軍が明・朝鮮の連合軍の兵を3万3千7百人討ち取り、城の外に大きな穴を掘って埋めたという。そして、その死体から鼻を削ぎ取り、塩漬けにして日本に送ったのである(『島津家記』)。
加藤清正の部将・本山豊前守『本山豊前守安政父子戦功覚書』には、男女や生まれたばかりの赤ん坊も残らず撫で切りにし、鼻を削いで毎日塩漬けにしたと記されている。もはや戦闘員・非戦闘員を問わず、鼻をどれだけ獲ることができたのか競った感がある。その数は、一度に2・3万に及んだこともあった。
■捕らえられた朝鮮人
問題になるのが、朝鮮半島で生け捕った男女も船で肥前名護屋城に送られたことである。これは、秀吉の方針(乱取りの禁止)と相反する行為である。乱取りとは、モノを奪ったり、人を連れ去る行為である。秀吉の意向とは裏腹に、現地では日本の慣習にならって、乱取りが行われた。
実のところ、各大名にとって朝鮮への出兵は、多大な経済的な負担になった。第一に、多くの軍兵が動員されたうえに、半農半兵の土豪たちも出陣を余儀なくされた。出陣は長期間にわたったので、必然的に農業の担い手を失うことになる。同時に、農地が放棄される状態にあったのである。
とりわけ捕らえられた人々は、老人、女、子供が多かったという。彼らは屈強な男性とは異なり、反抗することが少なかったと考えられ、奴隷としては最適だった。
■黙認された乱取り
雑兵たちにとっての戦争は、極端に言えば勝ち負けが問題ではなく、いかに戦利品を得るかが重要であった。そうなると、秀吉の指示をまともに聞いていれば、何ら見返りのない「ボランティア」になってしまう。実際、略奪は多くの大名が黙認し、幅広く行われていた。
文禄2年(1593)に推測される8月23日付の石田三成覚書によると、三成は薩摩・島津氏に対して種々の命令を伝えているが、その中で船を使って乱妨・狼藉を働かないように指示を行った箇所がある(『島津家文書』)。
こうした指示が与えられたところを見ると、実際に乱妨・狼藉が行われており、島津氏は黙認していたのであろう。同様の事例は晋州城で戦っていた加藤清正軍にも見られる。この場合は、配下の武将が清正に知られないようにして、雑兵たちに略奪行為をしていたという。もはや秩序は崩壊していたのである。