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悪名高き「グアンタナモ収容所」 元収容者が“コロナ禍”の世界にそれでも希望を見出す理由

舟越美夏ジャーナリスト、アジア政経社会フォーラム(APES)共同代表
米ホワイトハウス前でグアンタナモ収容所に抗議する人々。(写真:ロイター/アフロ)

 「親愛なるプリズナーX。(新型コロナウイルスの)パンデミックのせいで世界は巨大な収容所になってしまったようだ。インターネット付きで、監視カメラはない収容所だけれどね」

 YouTubeのLetters Live(英国発の手紙の朗読イベント)チャンネルでモハメドゥ・ウルド・スラヒ(49)が手紙を朗読している。静かな、だが感情が込もった口調。久しぶりに見る彼は、笑顔は見せないが以前よりもほおがふっくらとして健康そうだ。

 「絶望するな、なんて言うつもりはない。でも君は一人ではないことを知って欲しい」

 モハメドゥは北西アフリカのモーリタニアの遊牧民の家系に生まれ育った。勉強好きでドイツの大学で学びエンジニアになったが、2001年9月の米同時多発テロ後に自国で拘束され、米国が設置した悪名高きグアンタナモ収容所(キューバ南東部)で最重要犯と誤認され、拷問や隔離監禁に14年間の日々を耐え抜いた。4年近く前に解放されたが、今も司法手続きがなしで閉じ込められている40人の「プリズナーX」を、忘れたことはない。5月15日、グアンタナモ収容所は設置から6700日目となり、世界各地で「グアンタナモ閉鎖」を求める声が上がった。

「グアンタナモ収容所設置6700日目」に合わせ、収容所閉鎖を求めるモハメドゥ=本人提供
「グアンタナモ収容所設置6700日目」に合わせ、収容所閉鎖を求めるモハメドゥ=本人提供

 プリズナーXへのモハメドゥの手紙は、新型コロナウイルスによるロックダウンで行動の自由を制限されたり隔離されたりする苦しみを少しだけ知った私たちに、究極のロックダウン下に放置されている人々の存在を喚起する。

 

 

グアンタナモ収容所を生き延びる

 グアンタナモ収容所は、米同時多発テロ以降、米国が世界各地に密かに設置したテロ容疑者収容所のひとつだ。英国の人権団体「Reprieve」などによると、グアンタナモ収容所には、少なくとも15人の子どもを含む約780人がアフガニスタンなど南西アジア、中東やアフリカから連行され、司法手続きなしに厳しい尋問や拷問、長期拘禁を強いられた。多くは米国が出す懸賞金目当てに売られたり、通訳の能力不足などで誤解され拘束されたりした人々だった。

 拘禁や拷問で死亡した人、自殺した人の数は明確ではない。それでもその違法性、残虐性が一部で報道されて国内外で批判が高まった。オバマ前米大統領はグアンタナモ収容所閉鎖を公約したものの、議会の反対で実現しなかったが、数百人を出身国に帰したり第三国に送ったりした。トランプ政権が成立した時点で残された収容者は約40人。うち5人はオバマ政権時代に解放を言い渡されたが実現しなかった人たちである。

 施設維持のため、収容者一人に付き年間1300万ドル(約14億円)が費やされる「世界一高額の収容所」であることも批判の的だ。国連も「閉鎖すべきだ」としているものの、トランプ大統領はグアンタナモ収容所存続を撤回していない。

 モハメドゥは米国で同時多発テロの2カ月後、モーリタニアの首都ヌアクショットで米中央情報局(CIA)に拘束された。ヨルダン、アフガニスタンにある米軍の秘密施設を経由し、グアンタナモ収容所に送られたのは2002年8月。アルカイダの最重要人物と誤認され、性虐待を含む激しい心身への拷問を受けた。逮捕、起訴、裁判など司法手続きは一切ないまま、「食べること」「トイレに行くこと」「眠ること」など、人として生きる全ての活動が24時間監視下に置かれ、自由と権利の一切を奪われた、終わりの見えない日々が続いた。

グアンタナモ収容所が撮影した、モハメドゥの最後の写真(2016年、本人提供)
グアンタナモ収容所が撮影した、モハメドゥの最後の写真(2016年、本人提供)

 解放を大きく後押ししたのは、米国人弁護士らの尽力で2015年1月に米国などで出版した獄中記「Guantanamo Diary」(邦題「グアンタナモ収容所 地獄からの手記」)だった。当局の検閲により、手記の多くの文言が黒塗りされたままの出版だったが、大半の市民が知らされていなかったことが書かれていた。米国が誇ってきた民主主義の原則とは正反対の収容所の過酷な実態。その中で助け合う収容者たち。拷問役を命じられた若い米兵が負う「心の傷」を思いやるモハメドゥ。監視役の米兵たちとの友情。世界最強の国が暴走する時、何が起き、究極の立場に立たされた時、人はどう行動するのかー。手記は米国などでベストセラーとなり、モハメドゥ解放を求める国際的な声が高まった。

 モハメドゥは2016年10月16日、目隠しと手錠、足かせをされて米軍輸送機に乗せられ、翌日モーリタニアで解放された。米大統領選でトランプ氏が勝利する3週間ほど前の、ギリギリのタイミングだった。首都ヌアクショットの空港で政府職員と共に出迎えた在モーリタニア米国大使は「お帰りなさい」とモハメドゥに言い、握手したという。

 

ビザ発行を拒否した日本

 しかしハッピーエンドからは程遠い。モハメドゥは今も様々な障害と闘っている。モーリタニアの市民は、モハメドゥを「米国の不当な長期監禁を耐え抜いた英雄」として迎えたが、モーリタニア政府は3年にわたりパスポートなど身分証明書を返還せず、そのため移動や就職の自由はなく選挙権さえなかった。「米国に返還しないように圧力を掛けられた、と政府から説明された」とモハメドゥは言う。長期の監禁と拷問による心身への障害を抱え、特に内臓疾患に関しては高度な治療が必要で、ドイツの医師が「無料で治療する」と申し出たが、モーリタニア政府は応じなかった。

 

 2019年10月、モーリタニア政府は遂にモハメドゥにパスポートを返還した。南アフリカ共和国はモハメドゥに査証(ビザ)を発給したが、アフリカ大陸以外の国は簡単に発給しない可能性がある。ドイツやフランスの大使館はモハメドゥに「ビザを発給しないよう米国大使館が圧力を掛けてきた」とこっそり教えたという。

 日本政府は発給しなかった。龍谷大学犯罪学研究センター(京都)がモハメドゥを研究会に招聘したが、日本政府は3月初旬、モハメドゥのビザ発行を拒否。犯罪学研究センター長の石塚伸一教授に対し、外務省は理由を明らかにしなかった。発行拒否の背後にあったのは、米国への「忖度」以上のものだろうか。米国に配慮したり要求に応じたりする政府は、モーリタニアだけではないだろう。

 

「初めて希望を見出せた」

 自らの自由と同じくらいモハメドゥが気に掛けているのが、グアンタナモ収容所に残された人々だ。モハメドゥは解放の一年後に獄中記「Guantanamo Diary」の検閲で消された部分を復活させた「再建版」を出版した。その冒頭にはこうある。

 「グアンタナモにハリケーン警報が出るたびに、僕は同じ白昼夢を見た。収容所がなぎ倒され、収容者も施設側の人間も生き残るためにもがく。ある時は、僕が多くの人を救う。僕が誰かに救われる時もある。いずれの場合も、どうにか僕たち全員が脱出し、自由になるのだ」

モーリタニア・ヌアクショット郊外の砂漠で、「神の御加護を」とアラビア語で砂に書くモハメドゥ(筆者撮影、2017年)
モーリタニア・ヌアクショット郊外の砂漠で、「神の御加護を」とアラビア語で砂に書くモハメドゥ(筆者撮影、2017年)

 そして今、モハメドゥは手紙でプリズナーXに語り掛ける。

 「(新型コロナウイルスの)パンデミックで世界は巨大な拘禁施設になったようだ。いや、インターネットがあり、監視カメラがないトイレに行ける自由、食事をしたり好きな時間に寝たり起きたりする自由がある拘禁施設だ」

 「ソーシャル・ディスタンスといった些細な不便さに人々は不満を漏らす。僕は驚きをもってそれを見つめ、グアンタナモ収容所で僕が味わった、そして君たちが味わっているロックダウンがどんなものかに思いを馳せる」

 「僕の周りにいる人たちは、まるで刑務所にいるようだ、と気が狂いそうになっている。彼らは刑務所を実際には知らない。だが、本物の収容所のこと、そこにいる君たちのような収容者のことを思うだろう。究極のロックダウン下で生きること、隔離された生活を強いられ、自分の人生のどんな些細な決定をする権利も奪われた状況とはどんなものなのかを」

 最後にモハメドゥは「僕たちの世界は変わった」と書く。

 「今、世界は同じ敵に向かい、戦い、生き残るために結束している。こんなことは今まで言ったことはないけれど、僕は初めて希望を見出している」

 モハメドゥの獄中記を基にした映画撮影が現在、南アフリカなどで進んでいる。出演者には、ジョディ・フォスターやベネディクト・カンバーバッチら錚々たる俳優が名を連ねている。5月初旬には、ニューヨーカー誌が掲載したモハメドゥについての記事がピューリッツァー賞を受賞した。グアンタナモ収容所から解放されながらも、苦難の日々を送り続ける人々の励ましとなることを願っている。(敬称略)

ジャーナリスト、アジア政経社会フォーラム(APES)共同代表

元共同通信社記者。2000年代にプノンペン、ハノイ、マニラの各支局長を歴任し、その期間に西はアフガニスタン、東は米領グアムまでの各地で戦争、災害、枯葉剤問題、性的マイノリティーなどを取材。東京本社帰任後、ロシア、アフリカ、欧米に取材範囲を広げ、チェルノブイリ、エボラ出血熱、女性問題なども取材。著書「人はなぜ人を殺したのか ポル・ポト派語る」(毎日新聞社)、「愛を知ったのは処刑に駆り立てられる日々の後だった」(河出書房新社)、トルコ南東部クルド人虐殺「その虐殺は皆で見なかったことにした」(同)。朝日新聞withPlanetに参加中https://www.asahi.com/withplanet/

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