「リーダーなき世界」でのサバイバル
「リーダーなき世界」
世界のリーダーは誰か。この問いに、多くの人は「アメリカ」と答えるでしょう。確かにアメリカは、経済力、軍事力で抜きん出た力をもち、(それを強制することで批判されますが)「自由」の理念の魅力を備えた、たぐい稀な国といえます。しかし、そのアメリカは、かつてもっていた世界に対する圧倒的な影響力を、いまだにもっているのでしょうか。
9月のアメリカの失業率は7.8パーセント。歴史的なドル安が続いているのですから、アメリカから見たこの好条件がパフォーマンスにもっと反映されてもいいはずですが、いずれにしてもこれは4年ぶりの低水準です。大統領選挙を控えて、これがオバマ大統領の追い風になるとみられています。しかし、それは観方を変えれば、アメリカ全体が景気回復と格差是正といった、もっぱら国内問題に関心を集中させている状況を物語ります。アメリカ国外に目を転じれば、自ら火をつけたアフガニスタンやイラクからは撤退を急ぎ、シリア問題では中露の反対の前に手も足も出ず、イランへの制裁に各国を巻き込む点では気を吐いたものの、それ以上の措置は取れていません。
「世界のリーダー」としてのアメリカに疑問符がつくなか、アメリカや日本を含む主要国首脳会議(G8)は、もはや国際秩序に大きなインパクトをもつ会合にはなっていません。特にこの数年、G8の多数を占めるヨーロッパ諸国がユーロ危機で青息吐息。日本も同様で、極度に内向きになりつつあることは、言うまでもありません。
これに対して、G8に中国やサウジアラビア、インドなどの新興国を加えたG20は、そのGDPの合計が世界の約8割を占める大勢力で、こちらの決定の方がより大きなインパクトがあります。しかし、温室効果ガスの排出規制に象徴されるように、先進国と新興国の間の意見対立も多く、スピーディーな意思決定にはほど遠く、世界をリードするというより、主要国間での利害調整が主な機能となっています。
一方で、近年のアメリカの政府や学界では、‘G2’の用語がよく用いられていました。アメリカと中国の二大国が国際的秩序を大きく左右する、というのです。しかし、これに対して中国は、「自国はまだ開発途上国で世界中の問題に対応する力はない」という立場を崩しませんでした。いわば、「大国としての責任」をアメリカに背負わされることを拒絶した形ですが、いずれにしてもこれにより‘G2’論も尻すぼみです。
この状況下、アメリカの政治学者I.ブレーマー(Ian Bremmer)を皮切りに、欧米諸国では1年ほど前から‘Gゼロ’(G-Zero)の議論が出てきました。アメリカは、かつてのような力を発揮できず、またそれに代わる勢力もない。世界をリードする大国が消滅した、というのです。これまでみてきたような状況に鑑みれば、‘Gゼロ’論には一定の真実が含まれているようにみえます。
「喪失への危機感」
ただし、この‘Gゼロ’論は、取り立てて新しい見方でもありません。15世紀から世界を支配してきた欧米諸国では、その優位が損なわれることへの危機感が定期的に浮上します。第一次世界大戦後に当時の新興勢力アメリカ、ソ連の台頭を背景に、ドイツの歴史学者O.シュペングラーが、1918年と22年に、ヨーロッパ中心史観を批判的に考察して著した『西洋の没落』。1980年代に西欧や日本の追い上げにあい、大規模な貿易赤字を抱え込み、その支配的地位への懐疑が芽生え始めたアメリカで、P.ケネディが1987年に著した『大国の興亡』。いずれも欧米世界の長期的衰亡を指摘したもので、今回の‘Gゼロ’も、「欧米世界の優位の喪失」という認識についてはシュペングラーやケネディを踏襲しており、その意味では近代以降に世界の覇者となった欧米諸国で、動揺の時代に必ずといっていいほど発生する、特有の危機感に基づくものといえるでしょう。
この「支配的地位の喪失への危機感」を反映して、シュペングラーやケネディに対する欧米諸国内での批判には、ややヒステリカルなものがあったことは確かです。今回の‘Gゼロ’論に対しても、「(特に中国など)他の国がその意思や能力に欠ける以上、アメリカ、EU、日本などの西側諸国が世界をリードする以外にはない」という批判が既に寄せられています。しかし、このタイプの議論は、「それしかない」という価値判断に基づく主張であり、欧米諸国の影響力低下という事実認識を後回しにする傾向が濃厚です。
もちろん、現在でも経済的に欧米諸国が世界で優位にあることは確かです。科学技術、軍事力、さらに自由や民主主義の普及といった多くの側面で、欧米諸国は他を凌ぎます。しかし、例えば「民主的な社会の方が経済成長に向く、なぜなら国民の要望が政府に反映されやすいから」といった主張を欧米諸国が展開し、開発途上国に民主化を強要しても、急激に経済成長しているのは中国に代表される権威主義的な政府に率いられる国であるように、欧米諸国の理念が通用しない状況が世界に満ちていることもまた、確かなのです。また、「アラブの春」で躍進したのがイスラーム政党であったことは、世俗的な民主主義の普及を前提としていた欧米諸国にとっては「期待はずれ」の結果でした。
自らの「神通力」が通じない対象が、取るに足らない小さな相手ならば、欧米諸国も鷹揚に構えられるかもしれません。しかし、既にその相手は、自らに迫る勢いをもっており、さらにその相手ぬきには自らが存立できない状況が、より欧米諸国の神経をいらだたせることになります。ノルウェーで移民排斥を訴えた極右青年による銃乱射事件や、イスラームの預言者ムハンマドを侮辱する映像に象徴される、近年の欧米諸国における排他的で攻撃的な姿勢の背景には、この「喪失への危機感」があるといえるでしょう。言い換えれば、近代以降の「成功体験」を否定されることへの拒絶が欧米諸国には渦巻いているのであり、‘Gゼロ’論をめぐる議論はその象徴なのです。
国際社会での「自己責任」
一方で、‘Gゼロ’論を支持するにせよ、批判するにせよ、欧米諸国が政治的、経済的、軍事的な存在感を収縮させつつあることは、最早誰も否定できないでしょう。その意味で、世界はフラット化しつつあるといえます。新興国の経済成長は、欧米諸国自身が推し進めたグローバル化で、投資や製造拠点が各地に拡散して行ったことの産物です。いわば、規制緩和によって全体が流動化する状況が生まれたわけですが、これは1990年代半ば以降の日本国内の状況と同じです。つまり、全体の統制がとれなくなるなかで、「自己責任」が貫徹されるシビアな状態になる、という意味において、近年の日本国内と現代の国際情勢は通じるものがあります。
戦後の日本は、「西側」としてのアイデンティティを強め、経済的、軍事的に、超大国アメリカへの依存を強めました。それが戦後復興と高度経済成長を可能にしたことは否定できません。しかし、歴史的な円高是正のための日本の為替介入に協調しなかった、むしろ批判したことを想起すれば、アメリカもヨーロッパ諸国も経済的に疲弊し、自国の短期的利益を最優先にする兆候が顕著になっているといえます。そのなかで、さらにアメリカとの友好関係を、何よりも優先させることの意義を見出すことは困難です。
いわば、現代の国際情勢においては、絶対確実という「鉄板」を期待することは困難で、常にリスク分散を図る必要があるのです。そのなかでは、戦後復興から高度経済成長の「成功体験」にとらわれない柔軟性をもつことが欠かせません。軸足は「西側先進国」であり続けるとしても、欧米一辺倒だった外交・通商関係を、新興国から将来の新興国たる貧困国に至るまで、多様化してバランスを図ることが、「自己責任」時代の国際環境を日本が生き残るうえで、不可欠の素養になるといえるでしょう。その意味では、「欧米諸国が圧倒的に優位な世界」の呪縛から一番逃れるべきは、欧米諸国よりむしろ、日本なのかもしれません。