元阪神・玉置隆さんから「僕たちが憧れ続けたカッコいい姿のまま」去っていく藤川球児投手へ―
阪神タイガースの藤川球児投手(40)が引退しました。きのう11月10日、甲子園で行われた巨人戦の9回に登板し、試合後のセレモニーで別れを告げた背番号22番。新入団発表会での詰め襟姿をまだ覚えているのに、あれから22年もの月日が流れたんですね。
ルーキーイヤーだった1999年から4年間、ファーム監督を務めたのがセレモニーで花束を贈った岡田彰布さん。当時はケガも多く、また「ファームで好投するのに1軍へ行ったら打たれる」という声をよく聞いたものです。でも岡田さんが1軍監督に就任した2004年から、藤川投手の野球人生が大きく変わったのは周知のこと。
2005年、スポニチの携帯サイトで私はこんな記事を書いていました。9月28日、甲子園で行われた巨人戦に勝って優勝へのマジックナンバーを1とした試合で、たまたま知り合いからチケットをもらって観戦した時のものです。
『1回の猛攻も見応えあり、途中で追い上げられた後はJFKが貫禄のリレー。優勝するチームとはこういうものなんだなあと感心した。藤川はすごい!あんなに球が速くなって…としみじみ思っていた試合後のお立ち台で「涙の準備はできていますので。皆さん、よろしいでしょうか?」と言いながら笑う藤川。それを聞いて優勝を待たずにもう泣けてきてしまった。思えば2002年9月11日、神宮で先発して5年目のプロ初勝利を手にした藤川はヒーローインタビューで男泣きに泣いた。(後略)』
この年の新入団発表会で鶴直人投手や若竹竜士投手、金村大裕投手が「目標とするのは藤川投手」と言い、以降も新入団発表会で「藤川投手のようなストレートを投げたい」という言葉はおなじみになりました。他球団のルーキーからも「対戦してみたいのは阪神の藤川投手」と名前が出てきたくらいです。
「球児さんと会社に感謝!」の引退試合観戦
そんな藤川投手を「雲の上の人」と語るのは、元阪神タイガースの玉置隆さん(34)。阪神を退団後、2016年から鴻池運輸株式会社の社員として、社会人野球の新日鉄住金鹿島(現在は日本製鉄鹿島)で4年間プレー、昨年末に現役を退きました。今は鴻池運輸株式会社鹿島支店で働いています。
昨年11月の社会人日本選手権大会(京セラドーム)で大阪に来ていた際も「球児さんが食事に連れていってくれた」と言っていたし、年末のゴルフも恒例のようで、よく名前が出ていました。ただ詳しく聞いたことはなかったので、この機会にじっくり話してもらったわけです。その内容をご紹介する前に、急きょ現地観戦となった引退試合の話から。
実は、きのうの引退試合は見に行く予定がなかったのです。平日で仕事があるのはもちろん、「僕よりもっと見たい人がいるから。僕は直接、球児さんとお話しできるので、僕の1人分だけでも足を運んでもらった方がいい」と言っていたところ、2日前になって「チケットを取るから見に来るか?」と、藤川投手から連絡がありました。
ありがたいと感謝しながらも、仕事を休めるかどうかわからないと言っていたのですが、会社の方で当日午後と翌日の休みを許可してくださったとか。よかったですね。それで、退団後初の甲子園へやってきました。甲子園のスタンドで試合を見るのも、ファーム時代のチャート(スコア)つけ以来だったそうです。
引退登板とセレモニーの感想を尋ねると「感動しました!最高でした」と玉置さん。それから「引退試合じゃないですよ、あのボールは。現役バリバリ。ほぼ150キロですもんね。原監督の粋なはからいもあって。本当は三振締めがよかったんでしょうけど、まあ真剣勝負なので」と続けました。
藤川投手の登場曲は学校のチャイム
そして「リンドバーグ、甲子園で聴けてよかった!あの曲は、僕の中では学校のチャイムみたいなものなんですよ」と言います。学校のチャイム?毎日のように流れるから?「いえ、僕の知っている球児さんは追いつかれたことがなかったので、あの曲が流れるともう試合が終わるんだという合図。だから下校のチャイムですね」
ほほ~なるほど。さあ皆さん帰りましょう、という下校のチャイムですか!うまい表現ですねえ。自身の登場曲をそんなふうに、それもチームメイトから思ってもらえるなんて、クローザー冥利に尽きるってものでしょう。これは名言として保存させていただきます!
また、今回は玉置さん1人だけでの観戦だったのですが、スタンドではOBのみんなと再会できたらしく、それも嬉しかったみたいですよ。「本当に呼んでいただいてよかったです。球児さんに、そして休ませてくださった上司や会社の方に感謝しています」と繰り返していました。
尖りまくっていた自分に「そのままでいい」と
では阪神時代の思い出を聞きましょう。ここは“玉置投手”と書かせていただきます。
玉置投手が指名されたのは2004年のドラフト会議。2004年といえば藤川投手が入団6年目で、シーズン途中に“覚醒”した年です。そして玉置投手が1年目の2005年からはもう『JFK』の一角を担い、やがて伝説のクローザーとなっていくわけで、玉置投手の印象も「僕が入った時から大ブレーク!ずっと雲の上の人です」という感じでした。
そんな人と近づけたのは?「1年目か2年目の秋季キャンプ(2005年か2006年・倉敷)で、声をかけていただいたんです。当時の僕は、尖りまくっていました。高卒で入団した、世間知らずのお山の大将。コーチとも“ケンカさせてもらう”くらいで(笑)。とにかく尖っていたんです。だから僕の周りには人がいなかった」
社会人はもちろん、阪神でも「玉置隊長」と選手やコーチ陣が言っていたほど頼りにされるイメージだったのに、そんな尖り時代がありましたっけ?
そういえば1年目の玉置投手に、とある記者が「いいスライダーですね」と話しかけたら「僕、スライダーはないので」とクールに答えたのを思い出しました。本人にとってはカーブなんですよね、握り方も。ただ球の変化がスライダーなので、実況や解説の方々はそう言っていたものです。とはいえ、そこで「そうですね」と話を合わせなかった18歳は、確かに異質だったかもしれません。
しかしまあ、コーチにも噛みついていたとは…知らなかったですねえ。「そんな僕に、球児さんは声をかけてくれた。俺も高卒で入ったから気持ちがわかる、と言って。でも接点は唯一、お互いに高卒というとこだけなんですけどね」。お母さん思いという点も共通していたかも、と私は勝手に思いました。
「僕の話を球児さんは全部受け入れてくれました。球児さんから怒られたことがありませんね。『お前はそれでいい』『その考えは面白い』って。雲の上の人が、それでいいと言ってくれるんです。こんな僕に、そのままでいいと」。なお、会話の中で「こんな僕に」というフレーズが何度も出てきます。
「ご飯にも、よく連れて行ってもらっていますね。ありえないでしょう?なんで僕が?って思いましたよ。僕が1軍に上がった時も、球児さんが2軍に来てはった時も、いつも声をかけてもらった」
目の当たりにした切り替えのすごさ
阪神時代で一番思い出に残っていることを教えてください。
「1軍へ行って、球児さんも一緒にブルペンで待機していた時のことが忘れられません。そこでの立ち居振る舞いが。この人は今から5万人の前で投げるのか?っていうくらい肩の力が抜けているんです。いつも、ずっと、そうでした。みんなを笑わせてくれたりして。僕なんか試合中ということを忘れるくらい笑いますもん!」
「でも(ベンチから)電話がかかってきて、行くぞ!となったら変わる。3や4から10に上げるって人はよくいると思うんですけど、球児さんは0から100まで上がるんです。僕にはそう見えました」
「たとえば打たれた後もそうですね、切り替えのすごさは。僕が打たれて落ち込んでいたら、メシ行くぞ!って。悩まない、振り向かない。ずっと前を向いている。過去なんかどうでもいい、という人です。毎日、楽しく野球をしてはりましたね。本当に野球が好きで、遊ぶことも好きで。すべて全力!そのイメージです。今まで見たことがない人」
野球に関してのアドバイスなどもあったんですか?「それはほとんどないですね。でも2013年、クビも覚悟していた時に1月の自主トレを一緒にやろうと誘ってもらって、あの時にご指導いただきました。そこで僕の中に今までなかった感覚が芽生えたというか、技術的なことも考え方も含めて、大きく変わったかも。その年が自分のキャリアハイでしたから。あれがなかったら今の僕はいませんね」
「勝負勘もそうです。自主トレの中でサッカーとかやっていて、ポンと置きにいったり、相手に気を使ったりしたら、球児さんに『お前、それは違う!』って怒られました。『勝つことや!』と」。単なるゲームのようなものでも?「そうです。勝負なんですね、すべて。その勝負には勝たなきゃいけないと」
「何をやらせてもすごい!野球、ゴルフ、サッカー。これをセンスと呼ぶのだろうと思いました。野球をやっていなくても、きっと何かで、世界で戦っていただろうなと思う。それは間違いないですね」
「球児さんの言葉がなかったら今の僕はない」
2015年、戦力外を通達され合同トライアウトを受験した玉置投手は、社会人チームからのオファーを受けて迷っていました。その時、大阪の串カツ屋さんで一緒に食事をした藤川投手が、こう言ったそうです。「俺には悩む理由がわからん。行け。行ってみないと見えん景色がある。何億で野球をやろうが、何百万でやろうが同じや」と。
玉置投手は「あの言葉がなかったら、今ここにいなかったと思う」と言っていました。背中を押してもらった大切な場面ですが、もしかすると藤川投手は、目の前にいる後輩が何を迷っているのか本当に理解できなかったのかもしれませんね。でも玉置投手にとっては、まさに目から鱗が落ちる真っすぐな助言だったでしょう。
また「結果は出し続けることに意味がある。1年や2年じゃなくて。という話も球児さんはしていましたね。その言葉があったので僕も社会人の4年間、結果を出し続けようと頑張れた」と玉置投手は言います。参考までに昨年の記事をどうぞ。→<元阪神・玉置隆投手 野球人生のエピローグは「最高に幸せな4年間でした」>
そんな頑張りを新聞記事などで見てくれていたようで、昨年のシーズン中には「カッコええ生き方してるまあ」というLINEメッセージが届いたんですって。これも、かなり嬉しくて「しびれたっすよ!」と玉置さん。「去年辞めて何と言われるかなと思っていたら、『ようやった』と言ってもらいました。嬉しかった」
そうそう、玉置投手と入れ違いで藤川投手が阪神に復帰した際に「球児さんが戻ってくるなら、もう1年やりたかったと言ったんですけど『過去には何もない!』って返されました」と笑います。「過去は関係ない。興味ない」が口癖の藤川投手らしいセリフ。だから、きっと「~だったら」「~なら」という考えは存在しないのかもしれませんね。
2つの国家試験も一発で合格!
ここで玉置さん自身の話を書いておきましょう。昨年11月の日本選手権終了後に引退して野球部を辞めた玉置さんは、冒頭でご紹介したように鴻池運輸株式会社の鹿島支店で働いています。「まずは会社の戦力になること」を目標に、朝5時半起きで頑張る毎日。「そのために必要な資格を取ろうと、生まれて初めて勉強しました」
え?生まれて初めてって(笑)、言いきっていいのかしら。それはどんな資格ですか?「運行管理者と衛生管理者の資格で、2つとも国家試験なんですよ。運行管理者の方はコロナの影響で年2回の試験が1回に減りました」。ということはチャンスも減ったわけですね。
試験勉強はどれくらいの期間?「勉強が3か月、試験2つで計5か月です。仕事が終わったあと家に帰って勉強、休みの日は図書館へ行って勉強」。ひゃあ~それは大変!集中する習慣を保つのもしんどいでしょう。「家族と一緒に住んでいたら逆に勉強できなかったかも。試験と仕事の両立は無理でしたね」。なるほど、ここは単身赴任が幸いしたかもしれません。
運行管理者は3月の試験を受ける予定が延期されて8月に、衛生管理者の方は毎月ある試験のうち7月に受けて、見事どちらも一発合格!それだけじゃなく会社独自の試験もあって、合わせて3つ連続で合格したそうです。これには奥さんも、地元・和歌山の皆さん方も驚愕だったとか。本人でさえ「あの玉置が!?」と言うくらいで。
それには理由がありました。まず会社の戦力になることはもちろん、「どうしても鹿島にいる間に資格を取っておきたかったんです。それが鹿島支店長との約束だったし、いろんな人に助けてもらって野球をやってこられたので、自分が頑張らないといけないことは頑張りたかった」というもの。
また「勉強をしてこなかったコンプレックスもあって。野球以外に何もできない自分が、頑張ればできるという自信をつけたかったのもありますね。今後、仕事を覚えていく以上、頑張れるきっかけになればと思ったから」だと話しています。すべてクリアできて何より。これで気持ちが楽になったかと思いきや「仕事の方が数倍むずかしいですよ」とのこと。日々これ勉強ですね。
5年連続の都市対抗出場に涙
現役を引退して仕事漬けの生活でも、野球部との縁が切れるわけではなく、都市対抗野球の予選も現地で応援したそうです。9月初旬の茨城1次予選を順当に勝ち上がって北関東2次予選へ進んだ日本製鉄鹿島。2次予選の1回戦は2対0でエイジェックを下し、準決勝のSUBARU戦は2対1で勝ちました。
しかし、第1代表決定戦の決勝で日立製作所に4対0の完封負け…。やはりSUBARU、日立製作所との三つ巴は延々と続きますね。そして迎えた第2代表決定戦で再びSUBARUと対戦し、7回まで3対0とリードされていました。ここで底力を見せるのが鹿島。8回に3点取って追いつくと、延長10回に1点勝ち越して逃げ切り!飯田晴海投手が10回完投勝利です。
相変わらずハラハラ、ドキドキさせて勝つという日本製鉄鹿島ならではの戦いでしたが、晴れて5年連続の都市対抗出場となっています。ちょうど代表決定戦の2試合が10月3日と4日の土日だったため、どちらもしっかり観戦できた玉置さんは「なんで毎年こんな試合になるんですかね」と笑いながら「本当にすごい!感動しました!」と大喜び。
ことしはマネージャーとなった島田直人さん(帝京高校で阪神・原口選手の後輩)が「玉置さんも来てくれて、泣きながら応援してくれていたみたいです」と教えてくれたので、確認してみると「いやぁ最近ほんまにヤバいですね。感動してすぐ泣いちゃいます。すごい泣きました!」と素直に認めています。
「自分がいなくなって負けるほど嫌なものはないから、決めてくれてよかった。来年以降はいつ負けてもいい(笑)」と言いながら、また泣いて応援するんでしょう。東京ドームの本戦も「行きますよ!」と張り切っていました。ことし唯一の全国大会、どんどん勝ち上がってほしいですね。
「僕にとっては、いつまで経っても雲の上の人」
では再び、藤川投手との話。会話の中で玉置投手は何度も「僕から連絡したことがない」と言っていますが、実は一度だけあったそうです。ことし藤川投手の引退を報道で知った時で「その日は、あちこちから連絡が来て大変だろうとわかっていたけど…。でも連絡したかったんです。どうしても。だから人生で初めて、僕からLINEをしました」とのこと。
「お疲れ様でした、って書いて送ったんです。本当にLINEとかメールとか、すごい数だったはずなのに、なんと5分で返事が来た!びっくりしました。こんな僕に?と思って。いろんな人から連絡あったのに、僕なんかに5分で返してくれたんですよ!」。思い出して少し興奮気味。本当に嬉しかったんでしょうね。また“こんな僕に”連発です。そして続けました。とっておきの話を聞かせるように。
「そうそう!僕なんかを、球児さんは“友人”って言ってくれるんです。『また友人として飲みに行こうな』って。野球の後輩みたいな、ちっちゃい世界じゃないんですよ。深いでしょう?」
友だち!それはすごいですね。「僕にとっては、いつまで経っても雲の上の人ですけど(笑)」。その雲上人は「ひとこと、ひとことが重い。それに話し上手だから面白いんですよね。プライベートの球児さん、本当に面白い!」と力説してくれました。何もかもが魅力的な人ですね。「本当にそうです。ご一緒できる機会があれば、また話が聞きたい」と言いながら「僕はずっと緊張しています。越えてはいけないと思っています。一線?一線どころか二線(笑)。今も同じ」と玉置さん。
ところで、若くて尖っていた僕になぜ声をかけてくれたんですか?と聞いてみたことはある?「ないです。一生、聞けない。聞かないです」。それだけ仲良くしてもらっていたら、少しずつでも慣れて近しくなるものですけど、徹底して距離感を保っているわけで。ある意味、そんな玉置さんもすごいなあと思いました。
藤川投手へのメッセージを
「お疲れ様でした。ずっとカッコいい球児さんのままでしたね。ボロボロで終わる人が多いのに、僕たちが憧れ続けた球児さんのままでマウンドを去っていく。すごくカッコよかった!今まで見た中で一番の引退試合でした。まだまだ力のあるところで身を引く、これぞ引退なんだなと思います。とりあえず、ゆっくり休んでいただきたいですね。もう野球のことや体のことを考えなくていいので、家族とゆっくり過ごしてください」
「僕たちが憧れ続けた球児さんの姿のまま」と言いますが、社会人の4年間で鹿島の選手たちが玉置投手に抱いたイメージは、あなたが藤川投手を見ていたのと同じじゃないでしょうか。きょう11日、阪神の今季最終戦で先発したDeNA・大貫晋一投手も、プロ入り前に「玉置さんの存在が大きかった」と話していました。「ここを超えていかないとプロでは通用しないと思えた」と。あなたが藤川投手を追いかけたように、またその背中を追う後輩がいるって、とても幸せなことですね。
<掲載写真のうち※印はチーム提供、他は筆者撮影>