【インタビュー】中村雅俊 俳優として、歌手として50年――「俺には“次”何があるのだろう」
今年デビュー50周年
今年デビュー50周年を迎える中村雅俊。俳優として主演作品は100本以上、歌手としてシングル55作、アルバム41作とコンスタントに作品をリリースし続け、ライヴ活動も毎年全国ツアーを行ない、ライヴの通算回数は1500回を超える。役者と歌手。「中村雅俊が二人いる感じ」と語り、どちらも真正面から取り組んできた50年を振り返ってもらい、さらに73歳の誕生日当日の2月1日に東京・すみだトリフォニーホール大ホールで開催するシンフォニックライヴ『billboard classics 中村雅俊 Symphonic Live 2023-2024~WHAT’S NEXT~】についてインタビューした。
「俳優として、歌手として中村雅俊が二人いる感じ」
中村は1974年ドラマ『われら青春』(日テレ系)で俳優デビュー。同時に同ドラマの挿入歌「ふれあい」で歌手デビューを果たし、同曲はいきなりミリオンヒットを記録した“ゴールデンルーキー”だった。翌1975年には主演ドラマ『俺たちの旅』が高視聴率を叩き出し、中村が歌う主題歌「俺たちの旅」と挿入歌「ただお前がいい」も大ヒットした。全国ツアーもスタートさせ、役者と歌手の両輪でここまできた。どちらも手を抜くことなく懸命に走り続けてきた50年だった。
「デビューしてすぐ『ふれあい』が売れて、コンサートツアーが組まれて、今思うと本当に稚拙なコンサートでしたが、ギターしか弾いたことがなかったのにピアノやサックスに挑戦したり、それなりに俺らしいライヴをやってきました。だけどちょっとミスがあったとしても『役者が歌っているもので…』と、お客さんにエクスキューズはできないなと思いました。 両方共片手間でやっていると絶対に思われてはいけない、と。そういう意識が早い段階で芽生えたので、役者が歌っているとか歌手が演じているという意識は全くなくて、中村雅俊が二人いるっていう感じなんです。それがお客さんに対して誠意あるパフォーマンスだと思ってずっとやってきました」。
「ファンの方達にずっと求められてきたことが俺にとっての勲章です」
役者と歌、どちらにも真摯に向き合ってきたからこそ、50年間どちらも第一線で続けることができた。中村は「求められてきた」50年だったと振り返る。
「求められた、ということが俺のキーワードというか、今自分がここにいる理由だと思います。これは強がりでもなんでもないんですけど、俺は音楽でも演技でも賞を獲ったことはないんです。でもファンの方達にずっと求められきたということが、俺にとっての勲章です」。
ファンからの手紙に書かれている言葉に感謝
これまでに1500本を超えるライヴを行なってきた。熱いファンとスタッフに支えられてきた。
「ファンクラブができて49年くらい経つんですけど、最初から入ってくださっていて一緒に年を取ってきた方が結構いるんですよ。でも確かファンクラブを作って2年後くらいに俺結婚しちゃったんで、その時は8割強の人が一気に辞めるという事態が起きたんですけど(笑)。でもそこからまた少しずつ増えてきて、毎年ツアーに足を運んでくれたおかげで、本当に共に歩んできたという意識が俺は強いし、ファンの方もそう思ってくれていると思います。みなさんからよく手紙をいただくのですが、そこに俺を選んで良かったって書いて下さる方が多くて、本当にアーティスト冥利、俳優冥利に尽きる言葉です」。
今再びドラマ『俺たちの旅』が注目を集める
“青春ドラマの金字塔”として今も多くのファンを持つ『俺たちの旅』が、『昭和傑作テレビドラマDVDコレクション』(アシェット・コレクションズ・ジャパン)シリーズとして刊行されるや一時売り切れになるなど、再び注目を集めている。『俺たちの旅』は三流大学の4年生で、就職活動もせずアルバイトに明け暮れるカースケ(中村)と生真面目なオメダ(田中健)、カースケの先輩・グズ六(秋野太作)という3人の若者の等身大の日々、日常を描いた群像劇は当時新鮮だった。
「『恋人も濡れる街角』は歌の幅を広げてくれた」
このドラマに共感し、のちに中村に「マーマレードの朝」(1978年)と「恋人も濡れる街角」(1982年)、「ナカムラ・エレキ・音頭」(1982年)を提供したのが桑田佳祐だった。特に「恋人~」は、中村をそれまでのどこか朴訥としたイメージから都会的なイメージに変化させ歌の幅を広げた、キャリアの中でも大きなポイントになっている曲だ。
「桑田君は『俺たちの旅』を熱心に観てくれていたみたいで、自分から『俺オメダ』と言っていました(笑)。『恋人~』は最初タイトルと歌詞を見た時『これ大丈夫なの?』って思いました(笑)。当時ある音楽番組に出た時に、司会の和田アキ子さんに『あなた変わったわね』って言われたのをよく覚えています。でも歌とライヴパフォーマンスの幅が広がったと思うし、今聴いても色褪せないと思う。桑田君には本当に感謝しています。この曲のちょっと前から、音楽番組に出る時はそれまでのジーンズと下駄からスーツと革靴に変わっていました(笑)」。
中村自身が「この人に書いて欲しい」とリクエストした2曲とは?
桑田を始め、「俺たちの旅」は小椋佳、他にも吉田拓郎、松任谷由実、小田和正等、日本の音楽シーンを牽引してきたヒットメーカー、メロディメーカーが中村に作品を提供してきた。これは中村からのリクエストだったのだろうか。
「俺からリクエストしたのは『いつか街で会ったなら』(作詞:喜多条忠 作曲:吉田拓郎/1975年)と『俺たちの旅』(作詞・曲:小椋佳/1975年)の2曲だけです。 あとはスタッフのアイディアで、ASKA(当時飛鳥涼)は一緒に熊本でライヴした時にASKAの方から『雅俊さん、第2の「ふれあい」を作らせてくださいよ』って言ってくれて「風の住む町」(1990年)を書いてくれました。そういう出会いや縁もあって、筒美京平さん、小田和正さんやスターダスト☆レビューの根本要君、米米CLUB、ユーミン(呉田軽穂)、作詞家の松本隆さん等々、本当に錚々たる方に書いていただいて幸せ者です」。
「改めて松本隆さんの歌詞の凄さに感動しています」
デビュー50周年企画として特設サイトを開設し、ベストアルバム収録楽曲のリクエストを募集している。300曲を越える楽曲の中から3曲まで投票できる。中村自身はどの曲に一番思い入れがあるのか気になるが、最近はある作詞家の歌詞の凄さに改めて驚いているという。
「『ハートブレイカーを装って』(1983年)というアルバムの中に『ハートブレイクを装って』という曲と『余韻』という松本隆さんに書いていただいた曲があって、『ハート~』は最近ライヴで歌っていなかったのですが、歌おうと思って改めて歌詞を読むと、すごくいい歌詞だなって感動しました。2曲共作曲が俺なので申し訳ないなって(笑)。『ハート~』は当時河口湖のレコーディングスタジオに松本さんにも来ていただいて、合宿して作った曲なんです。スティービー・ワンダーの『Lately』という、男性が好きな女性に別の男の陰を感じて嫉妬するという曲で、そういう感じのものを歌いたいんですと松本さんにお願いして書いてもらいました。『余韻』は女性と別れた男の気持ちを歌っているんですけど、もう気持ちが入りまくる歌詞なんです。『青春試考』(作曲:吉田拓郎/1978年)も松本さんに書いていただきましたが、今改めて松本さんの歌詞の凄さを感じています」。
2021年からスタートさせたシンフォニックライヴツアー
デビュー以来毎年全国ツアーを行ってきた中村だが、コロナ禍の2020年それが途絶えた。そして2021年から新たにフルオーケストラをバックに歌うシンフォニックライヴツアーをスタートさせた。3年目となる今回は『billboard classics 中村雅俊 Symphonic Live 2023-2024 ~WHAT’S NEXT~』と銘打って昨年12月21日に兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールで開催。そして自身の73回目の誕生日当日の2月1日に、東京・すみだトリフォニーホール大ホールで開催する。シンフォニックライヴの醍醐味を聞かせてもらった。
「45年やってきた全国ツアーができなくなって、歌えないことにショックを受けました。だから2021年にビルボードの方から新たなスタイルのライヴを提案していただいて、本当に嬉しかったです。あのフルオーケストラの豪華な音が客席に向かっていく感じは、本当に感動できると思います。客席から見ると、俺があれだけの数の演奏者と楽器を、まさに従えている感じのビジュアルになっていると思うけど、それも魅力だと思います(笑)。 俺も初めて見た時のインパクトがすごくて、自分でもすごいことをやっているなって思いました。でも最初(2021年)にやった時は、ドラムがいないのでリズムを取るのが難しかったことを覚えています。 一流のプロの演奏家の方に演奏をしてもらって、俺は自分で歌はあまりうまい方じゃないと思っているから『負けてられない!」って強い気持ちで臨みました」。
「歌手としての3つの夢のひとつが、フルオーケストラをバックに歌うことでした」
フルオーケストラコンサートは、中村の歌手としての夢のひとつだった。
「やっぱり歌うことを生業としていると、まず『NHK紅白歌合戦』には出たかったです(1982年出場)。やっぱり『紅白』に出ると、親や家族、周りの人、地元(宮城・女川市)の方が喜んでくれるので、ずっと出たいと思っていました。二つ目は敬愛するビートルズと同じ日本武道館でコンサートをすること。憧れのステージですからね。三つ目はフルオーケストラの演奏で歌うこと。ずっとバンドでライヴをやってきていたので、フルオーケストラで歌うのはもう違う世界の話でした」。
「年齢を重ねてきて“次”ということをすごく意識するようになった」
前回は“HARVEST”、今回は“WHAT'S NEXT”というタイトルが付けられている。どんな思いが込められているのだろうか。
「前回のコンサートは、それまで50年近く自分なりに歌ってきて、ヒットした曲も、いいと思ったのにヒットしなかった曲もあったけど、 そういう歌という“実り”をこの大編成のオーケストラで収穫したいなという意味を込めて“HARVEST”と付けました。 今回は、生活していく中で年を取ったなって感じることが多くなったので(笑)、次は何が起こるのか、何をやろうかとか“次”ということをすごく意識するようになったんです。 コロナでコンサートも中止になった時期もあったので、自分と向き合う時間も多くて、焦りではないけど俺には“次”何があるんだろうという素直な気持ちをタイトルにしました」。
2月1日、73歳の誕生日当日に『billboard classics 中村雅俊 Symphonic Live 2023-2024 ~WHAT’S NEXT~』東京公演を開催。「心躍るようなコンサートにしたい」
50周年という大きな節目、そして自身の73歳の誕生日当日に行なう東京公演。どんなコンサートになるのだろうか。
「初回は『ふれあい』とかバラードの方が、クラシックアレンジに合うのではと思ってそういう曲を多くしました。でもアップテンポの曲をやってみるとノリや疾走感が想像以上にかっこよかったので、前回はそういう曲を増やしました。今年もアップテンポの曲を多めにして、心躍るようなコンサートにしたいと思っています。“勢い”をつけて“次”に向かいたい。もちろん皆さんが聴きたいと思っているバラードや、あの曲もこの曲も、クラシックアレンジでどう生まれ変わっているか楽しみにしていてください。指揮者の円光寺雅彦さんが歌のことをとても理解してくださっているので、アレンジが変わってまた違う角度から光を当てられた歌も、みなさんにまっすぐに届けることができると思います」。
『billboard classics 中村雅俊 Symphonic Live 2023-2024 ~WHAT’S NEXT~』特設サイト