EU新体制の人事(2) なぜドイツ人委員長が選ばれたか:23年党首の重鎮
※この記事は「EU新体制、人事をめぐり何が起こったか(1):フランスとドイツ、勝者はどちらか。」の続きです。
ユンケル委員長の後を継ぐ人物として、EU首脳会議の結果、フォン・デア・ライエン氏が選ばれた。これから欧州議会による承認のための採決が待っている。
女性よりも名前よりも、ドイツ人であることにびっくりだと、前回の記事で説明した。
なぜドイツ人の委員長が誕生したのだろうか。
今後は話がかなりややこしいのだけど、出来るだけわかりやすく書きたいと思う。
そして、とっつきにくいEUとは一体どういうものなのか、欧州がどうなっているか、感じ取っていただく機会になればと願っている。
ヴェーバー氏が外されて
ドイツ人の委員長が誕生したのは、半分は意志があってこうなった、半分は波というか運かもしれないと思う。
本来なら、ドイツ人のマンフレート・ヴェーバーが委員長に就任するはずだったのだ。
でも、経験の浅さが問題になって、委員長の候補から外された。彼は母国ドイツで首相や州首相どころか、大臣も務めたことがないのだ。
彼が委員長の候補になったのは、欧州議会で第一党である「欧州人民党グループ」、つまり各国の中道右派政党の集まりの党が、彼を公式候補に選んだからである。
5年前の欧州議会選挙の時は、ジャン=クロード・ユンケル氏が、同党の公式候補に選ばれた。そして選挙で同党が第一党になったので、欧州議会の承認投票も特に問題がなく、そのまま彼が委員長になった。
経験の浅さのためにヴェーバー氏が外されたのは、仕方がないかもしれない。欧州委員会の委員長とは、EUのトップで、各加盟国の大統領や首相を束ねる役割だ。さすがに、大臣の経験すらないのはまずいと思う。
そこでメルケル首相は「本来ならヴェーバー氏がなるはずだが、批判が多い(特にマクロン大統領)。妥協して取り下げよう。でも、委員長はドイツ人であることは譲れない」という姿勢をとった。
ここで、まず最初の疑問がわく。
そもそも、このように経験の浅い彼がなぜ、「欧州人民党グループ」の公式委員長候補に選ばれたのだろうか、ということだ。
国を越えた欧州の政党
話がややこしくなるので、時系列で説明したい。
読者の方々は、欧州には「汎ヨーロッパ政党」、つまり国境を越えて欧州全域にまたがる政党があることをご存知だろうか。
有名な2つのうちの一つが、「欧州人民党」(EPP)という政党である。欧州中の中道右派(と右派)の政党が集まっている政党だ。
ここでいう「欧州」とは、EUを意味しない。つまりメンバーは、EU加盟国の政党だけではないのだ。バルカン半島の国々や、東欧のさらに東の国々などからも、メンバーに入っている。
この記事を書いている現在、同党公式サイトによると、42の国から81政党が参加している。そして、ドイツからセルビアまで14の国で、この欧州政党に所属している各国の政党が、政権党になっている。有名どころでは、フランスの共和党、ドイツの政権与党CDU/CSUも入っている。
創設は、1976年。もともとは、キリスト教民主主義の思想に賛同する党の集まりだった。党の起源は、2つの大戦の戦間期にあるという。時代の変化とともにキリスト教を前面に出すことはなくなっていき、現在の公式文書では「欧州の文明や歴史に起源がある」と説明している。
日本人には、まったく馴染みがなくて、驚きなのではないか。アジアで国境を越えた政党など、想像してみることすらできないだろう。
そういう「汎ヨーロッパ政党」が存在するのは、おおもとはやはり、思想の対立だと思う。
産業革命の時代に、社会主義(+共産主義)がうまれて、国境を越えた「万国の労働者の団結」が叫ばれた。左派の人たちは、人権やヒューマニズム、労働者の団結を旗にして、国境を越えて連帯するのが得意である。というか、そういう性質の思想なのだ。
いま私達が国民皆保険や有給休暇、労災保険などを享受しているのは、彼らの思想と活動のおかげと言ってもいいと思う。
だから当然、欧州中の中道左派(と左派)が集まっている「欧州社会党」という政党も存在する。こちらは今、2番目に大きい勢力だ。現在の組織は、マーストリヒト条約の際に改組したので1992年からである。
国際組織である「社会主義インターナショナル」に加盟している。この党の起源をたどると19世紀とも20世紀初頭とも言われる。
歴史を見ていると、こういった左派の団結に対して、右派が呼応してアクションを起こす、というパターンになっている。
23年も重鎮が動かない
さて、やっと本題に入る。
注目したいのは、中道右派が集まる「欧州人民党」の党首が、23年もの間、同じ人物だったことなのだ。
ウィルフリート・マルテンス(Wilfried Martens)というベルギー人である。
戦前の1936年生まれである。フランドルのゲント近郊の家族経営の農場で生まれ、第二次世界大戦でナチス・ドイツの占領を経験、父親が早くに亡くなり、貧困の中で育ったという。
この人は、1976年に欧州人民党を創設するイニシアチブを取った、3人うちの一人である(二人はベルギー人、一人はフランス人)。つまり創設メンバーだ。後にベルギー首相を1979ー91年の約12年務めた。1990年から欧州人民党の党首を務めていた。
彼は政策的にはリベラルで、中道右派、キリスト教と親和性のある左派、リベラル派との協調に成功した。そしてベルギー首相時代は、南北の言語対立の和解に貢献しただけではなく、この対立の中にあって、EUの首都であるブリュッセル首都圏の特別な状態を保持することにも成功した。いわばブリュッセルの恩人でもある(ちなみに、ルーベン・カトリック大学には、彼の名を冠した基金がある)。
このように、重鎮中の重鎮なのだった。
ただ、この地位にあったからといって常に最大の権力があったかというと、そういう訳ではない。
90年代、欧州の中道右派は、統一したばかりのドイツのヘルムート・コール首相が大きな力をもっていた。英ガーディアン紙によると、「(マルテンス氏は、自分が)1990年代にヨーロッパの中心的権力の支配的な人物、ドイツのヘルムートコールの近くに立ち往生していることを確認した人(でもあった)。 コール首相は彼の価値を知っていたが、たとえ公の場でも、彼を温和な軽蔑で扱うように見えた」という。
こういった戦中のナチス・ドイツを知る者が党首を長年務め、欧州の中道右派の重鎮と化したというのは、ドイツ人の欧州委員会委員長が誕生しなかったことに影響はあったと思う。
近年ではお年のせいか仕事のペースはかなり遅くなっていて、なかなか進まないのが常態になっていたという。
2013年のことである。氏は病に倒れた。当時、77歳。あまりに重鎮すぎて、すぐに代わりを探すという動きにすらならなかったという。というより、トップが精力的に働かなくても大丈夫な態勢が出来上がっていたのだろう。
氏が最後に公の場に姿を見せたのは、同年7月21日のフィリップ・ベルギー国王の戴冠式だった。入院して重病だとわかり、さすがに「代理」が立つことになった。結局、マルテンス氏は3カ月後の10月に亡くなるが、事実上「欧州人民党」の党首のまま息を引き取り、国葬された。
問題は、23年も君臨したこの「重鎮」の後なのである。
後任は誰なのか。
フランス人による地位の兼任
ここから大変ややこしい話になる。
重鎮亡き後、代理を務めたのは、ジョゼフ・ドウルというフランス人だった。
この人物は、「欧州人民党グループ」の長だった。「グループ」とついている所に注意したい。
この「グループ」は、欧州議会における、欧州人民党の名前である。
そんな訳のわからないことを言ってないで「欧州人民党」と言え、と怒られそうだ。筆者も「別にそれでいいことが大半では・・・ほとんど同じだし・・・」と思うのだが、やはり正確には違うのだ。
前述したように、党は欧州全体にまたがるもので、EU加盟国ではないので欧州議会にいないバルカン半島などの国々の政党も入っている。
それに、欧州議会のほうでは、よくあっちの小さな集まり、こっちの小さな集まりとくっついたり、離れたり、がある。無所属の議員で合流する人もいる。だから「グループ」という名前がつくのだが。
あえて例を出せば、「大阪維新の会」は大元の政党として常にしっかり存在するが、永田町のほうでは、日本維新の会と名乗り、あっちと協力したり、こっちと統一会派を組んだり、離れたり分裂したり・・・という状況と、本質は同じかもしれない。
だから組織は別で二つあり、長も二人いるのだ。
専門家は、欧州全域にまたがる方を「欧州政党」、欧州議会に存在する方を「会派(グループ)」と呼ぶことが多いが、この区別はあまり厳密には使われていないと思う(というか、厳密に使うと余計にややこしくなる・・・結局、議会にあるから「政党」なのだし。)
この欧州議会の「グループ(会派)」のほうの長がドウル氏であり、重鎮に代わって欧州人民「党」の党首も代理で兼任することになったのだ。
もう1年も経たないうちに2014年の欧州議会選挙が行われるという時期であったので、そのまま兼任し続けた。
歴史的な欧州議会選挙
2014年の欧州議会選挙というのは、歴史に残る画期的な選挙だった。
それまでは、EU各国の首脳が「密室で人事を決めていた」のだが、このときから民主的な方法になったのだ。
欧州議会の各欧州政党が、選挙前に委員長候補を立てる。そして選挙戦を戦う。第一党になった欧州政党の委員長候補者が、そのまま委員長になるという仕組みである(もちろん、欧州議会による承認は必要ではあるが)。欧州議会の議員は、EU市民が投票で選ぶのだから、より直接的で、民主的ということになる。
欧州人民党には、最終的に3人の候補が残った。ジャン=クロード・ユンケル氏(ルクセンブルク人)、ミシェル・バルニエ氏(フランス人)、そしてヴァルディス・ドムブロフスキス氏(ラトビア人)だった。
欧州議員になっている欧州人民党のメンバーと、同党のメンバー計828人の投票により、ユンケル氏が公式に選ばれた。
ここにはドイツ人がいない。めぼしい候補がいなかったというのもあるが、(中道)右派で、欧州の第一党で、ドイツ人の候補を出すことがはばかられたという伝統的な背景もあるのだと思う。
前回の記事を思い出していただきたい。EUは平和のために構築された。口の悪い言い方をすれば、組織としてドイツを囲い込むことだった。
ナチス・ドイツの記憶が生々しい世代では、一層このことは大事だった。
冷戦が終わり、東西ドイツが統一して巨大になり、戦争を覚えている世代は警戒感を深めた。
ウィルフリート・マルテンスは、まさにそういう世代の人であった。彼が党首になったのは、東西ドイツが統一した1990年だ。
それに、歴史的にドイツ人の委員長は、はばかられてきただけではない。
ただでさえドイツは大国で、メルケル首相は在任期間が長く、EUの支配者であるかのように批判されることが多い。それなのに、さらに欧州委員会の委員長までドイツ人となると・・・。
迷った末、メルケル首相(=ドイツ与党)は、ユンケル氏を支持することに決めた。
右派と左派の違い
ここで注目しておきたいことがある。
欧州議会の第二党で、中道左派が集まる「社会民主進歩同盟」(要するに欧州社会党)では、早々とマルティン・シュルツ氏が、公式候補に選ばれていた。この人はドイツ人である。
ドイツ人でいいのか。
ここは、右派と左派の違いだと思うのだ。左派は「国籍を越えた、市民と労働者の連帯」「国籍や肌の色に関係ない、人権とヒューマニズムの擁護」が理念であり信条である。ブレのない左派思想をもっていると信じられる相手なら、国籍は、右派ほどには問題視されない傾向にあると思う。思想と人物への信用が第一である(この点は後に重要なポイントになる)。
右派というのは、一つ転べば極右に近づいていく。実際近年の「中道右派」は、極右の台頭に負けまいと、どんどん極右に近づいていく傾向があった。
また国によって「まんなか」の位置が違うので、左派よりも国による違いが大きい。
だから、左派からドイツ人委員長が出るのは良いが、右派から出るのは許容できないという考えは当然あると思う。
ヨーロッパ人の「国」感覚
それとメルケル首相は、ユンケル氏=ルクセンブルク人という外国人を支持していいのか、シュルツ氏は政党が違っても同じドイツ人ではないか、と考える人もいると思う。
ここが欧州の面白いところで、欧州議会は「議会」なので、政党(会派・グループ)単位で動いている。「同じ国籍でも、党/考えの違う人よりも、別の国で同じ党/考えの人のほうが仲間」なのだ。
このあたりの感覚は、実際には人によって千差万別である。
さすがに「メルケル首相がルクセンブルク人を応援するなんて、売国奴だ!」などというドイツ人も、西欧の人間も、まずいないだろう。極右ですらどうなのか、即答はできない。
ただ「シュルツ氏は、ドイツ国内で政敵だ。政敵を利してたまるか。ルクセンブルク人(ユンケル氏)を総力で応援しろ!」という感情をもつ人、「国内で政敵といっても、同じドイツ人ではないか。ドイツ人がEUの中で高い地位に就くのは、長い目で見てドイツの国益になる」と思う人、さらに「国、国、と言っているんじゃない! 一つの欧州をつくるんだ。あんたたち、全員間違っている!」と思う人など、色々な人がいるだろう。
近年のドイツ国内は、中道右派と中道左派が大連立を組んでいるので、一層状況は複雑だ。
とはいえ、ドイツ人が「ドイツ人の委員長を立てて応援したい」という気持ちは当然出てくるだろう。この気持は、ドイツ人に限らずどこの国の人でもある。右左も問わない。ごく自然な感情だと思う。
極右の台頭と、ドイツ与党の不満
結局、2014年欧州議会選挙の結果、欧州人民党グループが第一党になった。なので、特に問題なくユンケル氏が委員長になった。
2013−14年当時は、「初めて民主的な方法で、委員長が選ばれる!」と、大きな話題になっていた。そのうえ選挙後というのは、どこでも人事が大きく動く。次の委員長は誰だ、次のEU大統領は誰だ、次のEU外務大臣は誰だ、EUの各大臣はどの国がどのポストを取るのか――そんな中で、23年も動きがなかった「欧州人民党」の党首の地位には、ほとんど関心が払われなかった。資料も少ない。
委員長はルクセンブルク人、EU大統領はポーランド人と、どちらも第一党の中道右派・欧州人民党グループがとった。
上級代表(外務大臣に相当)はイタリア人、欧州議会議長はドイツ人(シュルツ氏)と、こちらは第二党の中道左派・社会民主進歩同盟がとった。
結局、メルケル首相がドイツで率いるキリスト教民主同盟党(CDU)とキリスト教社会同盟(CSU)の与党は、何もとっていない。
確かにシュルツ氏はドイツ人である。与党は彼の属するドイツ社会民主党とは、大連立を組んでいる。
でも、結局は別の政党であり、政敵になりうる存在である。
しかもこの選挙で、イギリスとフランスでは、極右が第一党になってしまった。
イギリスではファラージ党首率いるUKIP(英国独立党)、フランスではマリーヌ・ルペン党首率いる国民戦線(FN)である。
どちらも24議席獲得し、当時の与党――英国は保守党、フランスはUMP――は極右に負けてしまった。
このことは欧州に大きなショックを与えた。
そんな中、ドイツは与党のCDU/CSUが34議席(社会民主党が27議席)と、圧倒的な安定感を見せた。極右に揺れた欧州が安定できたのは、人口が多いので議席数も多いドイツ(とイタリア)が、このようにしっかりとしていたからだ。
それなのに、ドイツの与党からは、欧州委員会の委員長の「い」の字も出てくることがないのだ。
このような状況に、欧州議会で第一党の欧州人民党に属する、ドイツのCDU/CSUの議員たちが「自分たちが極右から欧州を守って支えているのに」と不満だったのは、想像に難くない。ましてや、第二党で政敵となりうる左派政党のシュルツ氏は、欧州議会の議長に就任しているのだ。自分たちは与党なのに、自分たちは欧州を極右から守ったのに、何もない。
このようなとき、ほぼ同時期のタイミングで、重鎮のウィルフリート・マルテンスが亡くなったのだ。彼による23年間に及ぶ欧州人民党の統治が幕を閉じた。ナチス・ドイツの時代を実体験している世代の人は、もうほとんど世を去っているか、引退していた。一つの時代で終わりであった。
ヴェーバーがグループ長に
こうして、欧州人民党グループのトップに、ドイツ人のマンフレート・ヴェーバー氏が候補にあげられた。
彼は2006年から2009年まで、同グループの広報担当だった(ちなみに当時は、英国保守党がこの党にいた)。そして2009年からは、フランス人のジョゼフ・ドウルのもとで副グループ長(複数のうちの一人)を務めていた。
こうしてグループ内で強いドイツの支援を受けて、そして192名の所属議員中190名の支持を得て、彼は2014年にグループ長に選出された。
議員が減れば力は弱い
ここで気をつけてほしい。彼がトップに立ったのは、「グループ」のほうである。
フランスのジョゼフ・ドウルは、2007年から「グループ」のほうのトップで、重鎮亡き後、一時的に「党」のほうのトップも務めていた。しかし、「グループ」のほうは辞任してヴェーバー氏が引き継ぎ、「党」のほうのトップを続けることになった。
この人事をどう考えればいいのだろうか。
「グループ」のほうは数年起きにトップが代わり、常にアクティブな活動をしている。一方で「党」のほうは、23年もの間重鎮が地位を守っていた。フランスとしては、より重要な「グループ」のほうのトップを引き続き守りたかった様子がうかがえた。
しかしフランスは、極右に第一党を取られ、与党UMPが落ち込む事態になってしまった。「選挙に負けた」という事実があり、肝心の所属欧州議員の数が減ってしまえば、いくら大国でも行えることには限界がある。たとえ「党」のほうであっても、トップの座を得られるだけ良しとしようーーということだったようだ。与党UMPがあんなに議席数が減っても重鎮の後のポストに就けたのだから、おそらくジョゼフ・ドウルという人物には、人望があるのだろう。
でも、もしーー歴史に「もし」はないのだがーーフランスの与党が、伸びまでいかなくても現状を維持していたら、極右に負けなかったら、グループ長は引き続きフランス人のジョゼフ・ドウルだったかもしれない。そうすれば、ドイツ人の委員長の誕生は、もっと後のことになったかもしれない。
またもしも「党」のほうの長が、「グループ」と同じくらいアクティブに動いているポストだったら、状況は違うものになっていただろう。
こうしてマンフレート・ヴェーバー氏は、欧州議会における「欧州人民党グループ」のトップになった。
ただ、EU主要ポストの人事が、今と同じように各国のマスコミを賑わせている中、こちらの人事はほとんど話題にならなかった。
このリンクに、就任後の初めてのインタビューが掲載されている。この中でヴェーバー氏は「ユンケル委員長を支持する」と明言している。
以上が2014年、前回の選挙のことだ。彼が後に、同グループの欧州委員会委員長の公式候補になるのは、数年後のことになる。
続く