姉に導かれるようにして競馬の世界に入った1人の男が、現在、目指している事とは……
喧嘩ばかりしていた姉との仲を修復してくれたのは……
2004年7月24日。当時、北海道の牧場で働いていた男に家族から一本の電話が入った。
「『至急、帰って来い』と言われました」
実家は兵庫県。ただ事ではないと取るものも取りあえず帰郷。そこで待っていたのは……。
中塚健一は1980年10月14日、兵庫県尼崎市で生を受けた。父・猛、母・加代子の下、姉の葵、妹の綾と共に育てられた。
父は園田競馬の調教助手。後に同地の調教師となり、中塚が小学1年の時、西脇で開業した。
「僕自身は競馬に興味はありませんでした。姉の葵とは喧嘩ばかりしていたけど、口ではかなわないし、彼女は空手や柔道もしていたので力でもかなわずやられてばかり。姉弟仲が悪かった事もあり、僕はゲームばかりしていました」
高校生の時、競馬ゲームが流行った。最初、それに興味を持ったのは父だった。しかし、ゲーム機の操作方法が分からない父親に教えるうちに、ハマったのは中塚自身だった。
「その後、テレビで競馬を観たらゲームで覚えた血統ばかりだったのでますます惹かれていきました」
メジロドーベルが走っている時代だった。3歳牝馬の身でオールカマーを勝利したのに感激し、調べてみるとオークス馬である事を知った。
高校には普通に通ったが、エアグルーヴやグラスワンダーらの活躍に心躍らせ、ますます競馬にノメり込むと、険悪だった葵との仲に変化がみられた。
「姉は多趣味で競馬も好きでした。だから徐々に以前よりは普通の関係になっていきました」
牧場に届いた思いもかけない連絡
98年、高校3年生の夏休みには北海道へ飛んだ。新冠の牧場で厩舎作業をしたのだ。
「馬に乗せてもらったのは最後の方で少しだけ。武豊さんみたいに格好良く乗りたいって思いました」
高校を卒業すると軽種馬育成調教センター、いわゆるBTCで1年間、馬乗りを教えてもらった。
「アイルランド人の教官に教えてもらい、海外でも乗ってみたいと思うようになりました」
とは言え、まずは就職が先だった。BTCを出ると、ノーザンファームに自ら電話をして面接に行った。結果、空港牧場で働ける事となった。すると、葵との関係が更に良くなったと言う。
「少し見直してくれたのか、喧嘩はなくなり、気付いた時には仲良くなっていました」
そんな04年7月15日、葵は26回目の誕生日を迎えた。それから10日と経たない同月24日の事だった。
1頭の調教をつけ終わった中塚は事務所に呼ばれた。実家から電話が入っていたのだ。そして「すぐに実家に戻れ」と言われ、当時同じく北海道にいた妹の綾と共に帰郷。そこで待っていたのは信じ難い事実だった。
「姉が交通事故に巻き込まれていました」
結婚を誓い合った男性と共に事故に遭い、2人揃って即死に近い状態だった。
「顔は綺麗でした。お葬式には信じられないくらい沢山の人が来てくださり、交流関係の広さに驚きました。競馬場でアルバイトしたり、ラジオのアナウンサーの養成学校にも通ったりしていたようで、自分の知らない競馬関係者の方々も来られていました」
姉が導いてくれた現在
葵の遺品を整理していると、思わぬモノが見つかった。海外旅行のスケジュール表。それは他界していなければ実行されたはずの計画だった。人生、一瞬先には何が起こるか分からないと痛感し、思った。
「やりたい事はやれるうちにやらないとダメ」
ノーザンファームに不義理にならぬ様、筋を通した後、辞めた。そして……。
「以前、行ってみたいと思ったアイルランドに飛びました。そこで1年、エイダン・オブライエン厩舎で働く等させてもらいました」
帰国後、再び受け入れてくれたノーザンファームを経て、競馬学校を受験。合格すると、09年3月から白井壽昭厩舎、そして13年9月からは現在の高橋義忠厩舎で乗るようになった。
「高橋先生は『怒れば言う事を聞く』と思っている人とは真逆の性格です。スタッフのやりやすい環境作りを最優先に考えてくれる調教師です」
そんな中、韓国のコリアCで2着するクリノスターオーの調教をつける等した後、今年から「少々難しい」3歳馬を任された。
「苦しいところから逃げようとする性格で、一歩間違うと大変な感じ」というその馬は名をメイショウテッコンといった。
「まずは走る事は苦しくないと教えました。馬場入りを嫌がったら別のコースへ連れて行き、乗り運動はやめて引き運動を長くする等とにかくプレッシャーをかけない事、気分を損ねない事を優先しました」
来る日も来る日も根気よく向き合ううち、徐々におとなしくなり、馬場入りをゴネることも無くなった。
結果、7月1日にはラジオNIKKEI賞(G3)を快勝。重賞初制覇を記録した。
「控える競馬で勝てたのが良かったです。レースでも調教で教えたみたいにリラックスして走れれば距離はもつはずです」
秋は淀の3000メートル。クラシック最後の一冠・菊花賞へ挑みたいと言う。そうなれば春の皐月賞、ダービーを走っていた馬達がライバルになるのか。中塚に問うと、ニコリとして答えた。
「今週末の北海道150周年記念(7月28日、札幌競馬場、1000万下条件、芝・2600メートル)に僕の担当馬であるマイハートビートが出走します。この馬も秋には菊花賞へ挑ませたい馬。テッコンと2頭で向かいたいです」(※残念ながら後日マイハートビートは北海道150周年記念を回避となりました)
7月24日は「皆に愛される人柄だった」葵の命日。中塚は、現在の立場へと導いてくれた姉に手を合わせ「愛馬達の無事を見守ってください」と願うのだろうか……。
(文中敬称略、写真提供=平松さとし)