白石和彌監督、凄惨場面と俳優への配慮「阿部サダヲさんのようなベテランでもダメージがあるかもしれない」
大ヒットシリーズ『孤狼の血』などで知られる白石和彌監督が、櫛木理宇の小説を映画化した『死刑にいたる病』。若者を標的とした24件もの殺人で逮捕された榛村大和(阿部サダヲ)と、そのなかの1件の謎を追及する大学生・筧井雅也(岡田健史)のやりとりを描いた作品だ。
今回は白石監督に、榛村の人物造形、思わぬトラブルから生まれた場面ほか、凄惨な場面の撮影に対する俳優たちへの配慮などについて話を訊いた。
『凶悪』と『死刑にいたる病』の面会シーンの違い
――まず、とても難易度が高い作品だと思いました。視覚的にもショッキングな殺人の場面はありますが、基本的には言葉で榛村の異常性をあらわしていく。そして面会シーンで答え合わせをしていきます。行動よりも会話が中心になっている点が、見せ方として大変だったんじゃないかと。
かなり手探りでやりました。『凶悪』(2013年)の面会シーンもそういう壁にぶつかったんですが、あのときは割とストイックにカメラをドーンと置いて、シンプルに(人物の)切り返しだけでやっていったので、作品の空気感とも相まってやりきれた感はありました。あと、作品の匂いとして実録モノだったことも大きかったんです。でも今回は、面会シーンが長い。そうなると、その言葉の応酬のなかにギミックが必要になりました。
――たとえば、榛村、雅也のどちらかが喋っているとき、もう一方の顔をすりガラスに映りこませて顔が並んで見えるようにするみたいな?
そうそう。そしてお互いの右目が重なるように映したり、ある疑念が浮上したとき、榛村の残像に入りこんでいくようにしたり。あと、照明もシーンによって明るくなったり、暗くなったりして。そこは映画的に作りこんでいきました。あと『凶悪』のときは、すりガラスの材質がアクリルだったんです。
ーーどんな風に違いが出るんですか。
アクリルって透明度が少なくて、それが『凶悪』の作風に合っていた。『死刑にいたる病』はガラスなんです。透明度が高くて薄く感じる。これによって榛村と雅也の距離の近さが表現されました。
「テッド・バンディが頭をよぎった」
――驚いたのが、雅也がサラリーマンを襲撃して手の甲に傷を負うシーン。あれは岡田さんが別のシーンで怪我をしてしまったことから、その傷を生かした脚本に変えたんですよね。
岡田さんが別の場面で怪我をしてしまい、絆創膏を貼らなきゃいけなくなってしまった。岡田さんは「これによって手を見せないように芝居をすることは、やりたくない」とおっしゃって。こちらとしても「なんとかしよう」と。そこで、物語のなかでも雅也が怪我する設定にして組み込んだのですが、いろんなところに良い形で影響が出てきて、映画が出来上がってみるとラストまでの流れも怪我がないと成立してないくらいの感じになって。もちろん、怪我はなかった方が良いに決まっていますが、「これはうまくいった」と思いました。
――そしてなんと言っても、阿部サダヲさんが演じた榛村の存在感の大きさですね。
映画にもなった殺人鬼、テッド・バンディなんかを想起させますよね。原作を読んだとき、「あ、テッド・バンディだ」とまず頭をよぎりましたから。原作者の櫛木先生に「好きなシリアルキラーはいますか」と質問したら、「そのときの気分によって違うんです」とおっしゃって。榛村って、櫛木先生が思い描くいろんな殺人鬼像がすべて乗せられて出来上がっている気がします。
――榛村は、なぜか人を虜(とりこ)にする不思議な魅力も持っていますね。
ある意味でのカリスマ性がないとあんな事件は起こせませんよね。これは実在する日本の死刑囚話なんですが、彼に対しては看守たちも1日、ひとり1回しか会わないようにしているらしくて。それ以上、会ってしまうと彼に取りこまれてしまうという。今回の榛村にもそんなカリスマ性の要素を入れています。
「説明をせずに撮った場面のリアクションがリアルでも、それはプロの仕事ではない」
――この映画では、高校生が凄惨な殺人に遭ったり、子役たちが傷ついたりする場面も登場しますね。役者へのケアについても、細心の注意を払ったのではないでしょうか。
子役の方たちには、「これは映画の物語として撮影していて、あのお兄ちゃんたちは、本当はそんなことを思っていないからね」ということは、当然しっかりと説明していきました。子役に限らず、映画の撮影って特別で、カメラの前では緊張してしまうし誰もが記憶に残りやすい時間ですからね。そういった記憶によるトラウマだけは残さないようにしなければいけない。僕らが今、それをどこまで出来ているか正直、分からない。ただし思いつく限りのことはやっていきたいです。
――映画の撮影の記憶はかなり強いものですか。
作っている僕らも強く残りますから、俳優さんは特にそれはあるんじゃないかな。あとやはり、観る人も含めて記憶として定着させていくのが映画の作業ですから。たとえば『ミスティック・リバー』(2003年)って少年時代に性的な被害を受けてトラウマが残った人たちの物語だけど、そのメイキング映像を観たとき、クリント・イーストウッド監督が「子役に対するダメージが残らないようにしました。こういう撮り方をして核心を見せなければ良いんじゃないか」という風なことを語っていて。そういう当たり前のことを、あらためて学んでいかなければなりませんよね。
――なるほど。
たとえば子どもが死体を見つけるシーンがあったとして、なにも説明をせずにカメラを回して、「そこに入ってごらん」と誘導して死体が転がっていて、そのリアクションが「リアルだ」みたいな撮影をやっては絶対にダメ。たしかに芝居では出来ない驚きが撮れるかもしれない。でもそれはプロの仕事ではないし、映画ではない。ある時代まではそういうことで、「この監督はさすがだ」と賞賛されていた。でも「実はそういうことじゃない」と。当たり前のように、みんなで話し合って作っていかなきゃいけませんよね。
――それは殺人鬼を演じた阿部サダヲのようなベテランの俳優に対しても同じことが言えますよね。
阿部さんも、榛村を演じることで人知れずダメージを受けてるかもしれない。「こういう場面を撮影します」と、できるだけ話をしておきたいですよね。僕がそのすべてを出来ているかというと、怪しい部分は当然あります。言ったつもりであっても、ちゃんと伝わっていないとか。ただ、映画のなかで人物を造形していく上で当たり前のやりとりを、あらためて意識的にやっていきたいです。それは凄惨な場面の有無にかかわらず。これからもで出来るだけ俳優さんたちと話をしながら、誰もが安心して「おもしろい」と感じてもらえる映画を作っていきたいですね。
映画『死刑にいたる病』は全国公開中
配給:クロックワークス