【光る君へ】平安時代の婚活は手紙や和歌のやり取りで行われ、女房や母もかかわっていた
大河ドラマ「光る君へ」第2話は、紫式部が代筆業を行っている場面が印象的だった。若い男性が金銭と引き換えにして、ラブレターの代作を依頼していた。それは単なる手紙ではなく、和歌によるものだったようだ。
むろん、紫式部が代筆業を行っていたというのは史実ではなく、物語上のフィクションである。ただし、当時の婚活が手紙や和歌のやり取りで行われたのは事実なので、詳しく考えてみよう。
平安時代、公家の男性が女性に求愛する際、女房や乳母を通して、相手に手紙や和歌を送るのが一般的な作法だった。もちろん、今のようにマッチング・アプリはないのだから、アナログ方式である。
受け取った女性は、たとえ相手が気に入ったとしても、取り急ぎ断りの返事を男性に送る。おかしな話かもしれないが、それが当時の習慣だったのである。以降、男女は何度か手紙や和歌のやり取りが繰り返され、最終的にゴール・インということになる。
男性が女性(あるいは女性が男性)に和歌を送る際、代作を依頼することは決して珍しくなかった。代作を頼まれるのは、女房か母親である。藤原道綱(兼家の子)が女性にアプローチする際、和歌を代作したのが母である。
道綱の母は『蜻蛉日記』を残しただけでなく、勅撰集に36首も採用されたほどの和歌の名手だった。もちろん、下手くそな和歌を相手に送るとまずかっただろうから、代作もありえたのだろう。今ならば、恋愛は個々の問題であるが、当時は親も関わっていたのである。
藤原道長が妻となった倫子に求愛した際、倫子の父の源雅信は猛反対したという。というのも、雅信は倫子を天皇の后にしたかったからだったといわれている。しかし、花山天皇は天皇位に就いたがすぐに退位し、新天皇になった一条天皇は歳が倫子より16歳も若く、年齢的なバランスが良くなった。
そのような事情もあり、また倫子の母の穆子が夫を説得したので、2人の結婚は成ったという(『栄花物語』)。結果論でいえば、道長はのちに栄耀栄華を極めたのだから、正しい選択だったのだろう。娘の結婚の決定権は、父が持っていたようだ。
一方で、母は娘の交際を管理していたといわれている。清少納言と交際していた藤原実方は、ある娘のもとにお忍びで通っていた。それを知った娘の母は、怒って娘をつねったという。母は娘の男性関係を管理し、無断で交際することがないようにしていたようだ。
このように、母は娘の交際を管理し、娘の結婚相手に関する最終的な決定権は、父が持っていたようである。公家の場合は、娘が誰と結婚するかによって、父の立場が変わってくるのだから、当然のことなのかもしれない。相手の男性が高位高官の公家ならば、将来が大いに開ける可能性があったのだから。
参考文献一覧
服藤早苗『平安朝 女性のライフサイクル』(吉川弘文館、1998年)