どうする家康 大坂冬の陣「真田丸」の場所にはどう行くの?
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大河ドラマ「どうする家康」は、いよいよ大坂の冬の陣へ。老齢となった徳川家康が、豊臣家の最後の牙城・大坂城に攻め入ります。
大坂城は、現在の大阪城を訪ねてみても、鉄壁の守りを感じます。
しかし、地形的に唯一の弱点とされたのが、南方でした。その南方は、関ヶ原の戦いで徳川秀忠を足止めした真田親子の子にあたる、真田信繁(幸村)が作った真田丸が守りました。
真田丸は、大坂城の南に独立した出城(※)で、敵の攻撃を一手に引き受けます。漫画「進撃の巨人」に出てくる城郭にも、ちょうど南側に「シガンシナ区」と呼ばれる防衛のための出城があり、不思議な一致が見られますが、こちらは城郭と一体化しています。
※近年の城郭研究者の坂井尚登氏らの研究による。「どうする家康」の俯瞰CGでも、独立した出城説が採用されていた。従来は、大坂城の出口に密着した出城と考えられていた。
「真田丸」の場所にはどう行くの?
真田丸は、大阪メトロ長堀鶴見緑地線・玉造駅2番出口から南西へ徒歩7分。大阪明星学園や心眼寺(しんがんじ)の周辺にあったと考えられています。
写真左は、大阪明星学園のグラウンド。ここに真田丸本郭の中心があったと考えられています(大阪市天王寺区の見解)。向かいは心眼寺です。
※アクセスは、JR大阪環状線・玉造駅、近鉄・大阪上本町駅、大阪メトロ谷町線・谷町六丁目駅も利用できます。
心眼寺は、真田丸の一角にあり、真田信繁(幸村)らの冥福を祈るため、建てられました。
もともとこの場所にお寺はあったのですが、真田丸の一部として造成され、大坂冬の陣の終結後に取り壊され、しばらく後に再建されました。
真田幸村出丸城跡の石碑があります。
寺紋は真田家の家紋と同じ六文銭。案内板には、真田信繁(幸村)の戦いぶりや、真田丸のことが記されています。下はその一部です。
真田信繁は、武田信玄配下の武将であった、父真田昌幸の次男、通称は源次郎、号は好白。関ヶ原の戦いでは父と共に西軍側に付くも、戦いに敗れ、紀州九度山に幽閉される。十四年間、蟄居生活を送り、慶長十九年(一六ー四) 豊臣方に参加した。
大坂冬の陣では、難攻不落の大坂城唯一の弱点とも豊臣秀吉が危惧した、南惣構の外側に真田出丸を構築、そこで徳川方と壮絶な死闘を繰り広げた。
真田信繁(幸村)の墓です。なお、偉人のお墓は複数あることも多く、「お墓きわめびとの会」(香川県高松市)によれば、以下も信繁の墓です。
・妙心寺塔頭養徳院(京都府京都市)※非公開
・龍安寺塔頭大珠院(京都府京都市)※非公開
・田村家墓所(宮城県白石市)
・長国寺(長野県長野市)
・孝顕寺(福井県福井市)
・妙慶寺(秋田県由利本荘市)
・田原家私有林墓石(鹿児島県南九州市)
・お篭もり堂(長崎県南島原市)
・一心院(秋田県大館市)
心眼寺の敷地は、それほど広くありませんが、向いのグラウンドには、真田丸本郭の中心があったと考えられます。大坂冬の陣での徳川家康本陣(茶臼山)は、左方向(南南西)です。
なお、大阪メトロ長堀鶴見緑地線・玉造駅」から3駅の京橋駅周辺には、「どうする家康」でもテロップが出た、緒戦の「今福の戦い」の古戦場があり、ブラタモリが紹介しています。
【ブラタモリ大阪城と真田丸】ロケ地・全ルートを写真で紹介!#54(とらべるじゃーな!)
【どうする家康】ゆかりの地(城・古戦場)一覧と旅行モデルコース(とらべるじゃーな!)