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北条氏政・氏直父子は、豊臣秀吉を舐めきっていたので討伐されることになった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、ついに豊臣秀吉が北条氏政・氏直父子の討伐を決意した。その原因となったのが、名胡桃城事件である。名胡桃城事件だけでなく、秀吉が政権の政策基調とした「惣無事」についても考えることにしよう。

 秀吉は徳川家康、織田信雄を臣従させると、その後も四国の長宗我部元親、九州の島津義久・義弘兄弟も従えた。残る大身大名は、小田原(神奈川県小田原市)に本拠を置き、関東に覇を唱えていた北条氏政・氏直父子だけとなった。

 かねて秀吉は、氏政・氏直父子が従わないことに不満を抱いていたが、天正16年(1588)8月に北条氏規が上洛することになった。

 その後、秀吉は真田氏と北条氏が沼田領(群馬県沼田市)をめぐって争っていたので、これを解決するため裁定を行った。両者は完全に納得したわけではないかもしれないが、これにより領土紛争は解決した。

 こうして秀吉は北条氏を従えることに成功し、あとは氏政の上洛を待つだけとなった。ところが、天正17年(1589)に大事件が起こったのである。

 同年10月、北条方で沼田城(群馬県沼田市)を守備する猪俣邦憲は、同じ沼田領内の真田方の名胡桃城(群馬県みなかみ町)を突如として奪った。

 真田昌幸は猪俣氏の行為に抗議すべく、ただちに秀吉に事の次第を報告した。秀吉は自身が沼田領の裁定をしたにもかかわらず、北条氏が守らなかったので激怒した。

 秀吉は惣無事を政策の基調としており、私戦を禁止していた。紛争があれば秀吉が介入し、その裁定に従わせていた。もし、裁定に不満があり、軍事行動に出たならば、徹底して殲滅する決意だった。

 秀吉の怒りは一向に収まる気配がなく、北条方から弁明のために派遣された使者を三枚橋城(静岡県沼津市)に止めた。もはや、会って事情を聞く気持ちさえなかったのである。

 同年11月、秀吉は北条氏に対して、5ヵ条の書状を送った。これが最後通牒であり、そこには「北条氏が公儀を蔑ろにしているので、もはや上洛する価値すらない」と書かれていた。

 その直後、秀吉は今後のことを相談すべく家康に上洛を要請し、三枚橋城を軍事拠点とするため、家臣の津田盛月らを派遣した。着々と臨戦態勢を整えたのだ。

 家康は娘の督姫を氏直の妻として送り込んでいたので、北条氏の討伐について大いに悩んだに違いない。しかし、家康は秀吉の意向に従い、北条氏討伐の準備に取り掛かった。

 その間、一方の北条氏は、秀吉の強硬な態度にもかかわらず、極めて楽観的だった。同年12月、氏直は条書を送ったが、反省の意が見られず、かえって強気な姿勢を見せていた。

 秀吉は氏直の条書を見越して、先述のとおり早い段階で、北条氏の討伐を決意していたといわれている。

 秀吉の北条氏討伐の決意は並々ならぬものがあり、家康以下、豊臣秀次、前田利家、織田信雄、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝ら全国の名立たる大名が動員された。

 一方の北条氏も早々に小田原城での籠城戦を決意すると、領国内の諸城の臨戦態勢を整え、秀吉勢を待ち受けたのである。

 もし、北条氏が秀吉に舐めきった態度を取らず、誠実に対応していたならば、もう少しマシな展開になっていたに違いない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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