合戦後、死体を回収し、弔ったのは誰の役割だったのか?
今も悲しいことに戦争が各地で勃発しているが、戦死者の死体の回収や死者の弔いは欠かすことができなかった。それは戦国時代も同じことで、黒鍬と陣僧の役割は重要だった。彼らの役割について解説しておこう。
合戦においては、当然ながら戦死者がいた。戦死者の死体は、誰が回収していたのだろうか。勝者側の戦死者の死体は、遺族や黒鍬が行っていた。
黒鍬は小荷駄隊(兵粮、弾薬などの兵站担当部隊)に所属し、橋や陣地などを築くだけでなく、ときに戦死者の収容・埋葬などを担当していた。彼らは武士身分ではなく、戦場に動員された農民だった。
逆に、敗者側の戦死者は死体が回収されることなく、そのため戦場でそのまま朽ち果てることが珍しくなかった。
そこで、付近の住人が戦死者を憐れんで埋葬することがあった。もちろん、単に憐れんでという理由だけでなく、衛生面や死体が放つ腐敗臭を嫌ったという事情もあったに違いない。
戦場には陣僧という僧侶(主に時宗)が派遣され、戦病者の手当てや戦死者への供養を行った。僧侶には、医術の心得があったのである。
ただ、当時は医療が発達しておらず、刀傷や鉄砲傷が致命傷で亡くなることがあった。特に、鉄砲傷の場合は体内に鉛の玉が残り、それが原因で命を落とすこともあったという(鉛中毒)。
陣僧は、ほかにも文書作成や情報収集、敵陣への使者などを担当していた。それらは陣僧役といい、大名から課せられたものだった。なぜ、僧侶が担当したのだろうのか。
永承6年(1051)から康平5年(1062)にかけての前九年の役(源頼義、義家による陸奥の豪族安倍氏討伐戦)の際、源頼義が行方不明になった。
そこで、頼義を心配した武将の1人は、「僧侶でなければ、戦場に入ることが困難だ」と言い、すぐに髪を剃って僧侶の姿になると、そのまま戦場に入ったという話がある(『今昔物語』)。
僧侶は世俗と無縁な存在だったので、戦場を自由かつ安全に往来することができた。したがって、戦場において、傷病人の手当てをしたり、戦死者を弔ったりする役目を果たすのに好都合だったのだ。
戦死者の死体の回収後、大名は寺院で弔いを行った。明智光秀は菩提寺の西教寺(滋賀県大津市)で亡くなった配下の者を葬ったが(「西教寺文書」)、何も光秀の専売特許ではない。ほかの大名も行っていたことである。
父が戦死した場合は、大名が子に遺領の継承を認める所領の安堵状を与え、家臣として迎えたのである。
将兵が戦死に至らなくとも、大名は戦場で怪我をした家臣の体をいたわって書状を認めたり、医師を派遣したりすることで、家臣の忠誠心を繋ぎとめようとしたのである。