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【戦国こぼれ話】「賤ヶ岳の七本槍」の1人で、名将の加藤嘉明が築いた松山城の由緒とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
松山城の太鼓櫓と隠門続櫓。松山城は、名将として名高い加藤嘉明が築いた。(写真:ogurisu/イメージマート)

 松山城(愛媛県松山市)などへの落書きで、犯人が再逮捕された。文化財の破壊行為は、決してあってはならないことだ。ところで、この松山城は、どのような由緒のある城だったのだろうか。

■松山城の由来

 松山城は、現在の愛媛県松山市にある平山城である。もとは南北朝期に南朝方の忽那氏らの砦があり、戦国期には伊予守護を務めた河野氏の支城があった。

 慶長7年(1602)、伊予に入った加藤嘉明は松山平野の中央部に位置する勝山に新城を築城した。翌年、嘉明は建設中の勝山の新城に移り、松山城と命名したのである。

 加藤嘉明は永禄6年(1563)の生まれ。天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでは、「賤ヶ岳の七本槍」の1人として大いに軍功を挙げた。築城の名手としても知られている。

 松山城は勝山山頂の壮大な石垣の上に本丸、中腹に二の丸、山麓に三の丸を配しており、城主の居館は三の丸に置いた。現存の三層天守は焼失したため、19世紀前中頃にかけて再建されたものであるが、今も当時の面影を残している。

■城下町の展開

 加藤嘉明は農村地帯を城下町にするため、勝山の土地をならした。そして、石手川の改修治水を実施し、洪水に備えた。慶長7年(1602)に家中地割を定めると、鶴屋町・松屋町の地割などをして30ヵ町を完成させたのである。

 道後湯築城(愛媛県松山市)の築石などで北郭・東郭を設けると、城北に道後の集落を移転して道後町・今市町を形成。廃城の材木や石材を転用することは、決して珍しいことではなかった。さらに、松前の商人や住民を松前町に移し、唐人町に唐人を移したのである。

 濠や土手は、地域の画定線や城下町域ないし軍事的防御線としての役割を持つとともに、都市の拡大を防止する目的があった。

 市中に桝型・丁字路・鈎型路・袋小路があるのは、敵を市街戦で混乱させるためだった。敵軍の侵攻を容易にしないためである。町人街を防御線にするため、特権町である古町を武家屋敷から分離して配置するなど、さまざまな工夫を行ったのである。

■住民の居住区

 城下町の住民は身分に応じて、人々を集住させた。これは、城下町を作る際の鉄則である。重臣層の屋敷地は、城下町の最内側に形成。武家屋敷は、城下町の7割を占居したのである。

 上中級の武家屋敷は、大半が外側の当たり良好で、良質な飲料水のある城南地区を住宅地区とした。一方、下級の徒士・同心・足軽組屋敷や水呑町は、雑然と棟割長屋の組屋敷と町家が密集していた。身分差が居住区に反映されたのである。

 町人街区の中心街の本町・呉服町・松前町などの町家は、大商店・大旅宿の所在地だった。職人は、裏町か町はずれに同業者が集住した。材木・荒物類は場末に配置され、魚町は臭気の関係で裏町に置かれたのである。

 寺院配置は、広い境内と大きな建物を軍事的に重視。寺町を形成すべく、来迎・浄福・弘願・不退・千秋・御幸などを建立し、支砦防御ラインを西山丘陵の寺社群で構築した。

 搦手の城北防御ラインとしては、松前から長建寺、道後から山越に天徳・龍隠の2寺を移転した。寺社が敵からの防御ラインになることは、さほど珍しいことではない。

■松山城のその後

 寛永4年(1627)、嘉明の会津転封後には蒲生忠知が入封。このとき、二の丸などの整備を行った。蒲生氏が改易されたあとの寛永12年(1635)には、松平(久松)定行が入封、以後は松平氏が幕末維新期まで藩主を務めたのである。

 松山城は、このような由緒を持つ貴重な文化財だ。むろん、ほかの文化財も含めて、破壊行為は絶対にあってはならないのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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