宣教師フロイスも驚愕した!戦国時代のわが国は売買春が盛んで、性に奔放だった
昨今のわが国では、売買春が大きな社会問題となっており、摘発も厳しくなっている。こちら。
戦国時代にポルトガルから来日した宣教師ルイス・フロイスは、わが国の社会をつぶさに観察し、『ヨーロッパ文化と日本文化』、『日本史』などを著わし、その実態を書き残しているので、紹介することにしよう。
フロイスは「日本の女性が処女の純潔を少しも重んじることなく、処女でなくても名誉を失わなければ結婚もできる」と述べている。当時の日本では、処女性にまったく関心がなかったことを示す事実である。
その前段でフロイスは、「ヨーロッパでは未婚女性の最高の栄誉と貴さは、貞操でありまたその純潔が犯されない貞潔である」とわざわざ記している。
当時の売買春の実態を探るために、フロイスの『ヨーロッパ文化と日本文化』を参考にすることにしよう。フロイスは、「ヨーロッパでは修道女を隠棲・隔離することに極めて厳重・厳格であった」と指摘している。修行の身であるから、当然といえば当然であろう。
一方でフロイスは、「日本の比丘尼の僧院は、ほとんど売春婦の街になっている」と指摘している。比丘尼とは、後述するとおり尼僧に扮した女性の芸人のことである。本来の寺の役割からすれば、「売春婦の街」なんてことはありえないので、フロイスどころか現代のわれわれも大変驚く実態である。
では比丘尼とは、いったい何であろうか。比丘尼を簡単に説明すると、尼の姿で諸国を巡り歩いた女性の芸人であり、歌比丘尼・絵解比丘尼などが存在した。江戸時代には尼の姿の私娼を意味するようになり、比丘尼屋といえば女郎屋のことを指すようになったのである。
続けてフロイスは、「ヨーロッパでは普通、修道女が修道院から外へ出ない」と述べている。いうまでもなく修道女は修行の身であり、俗世と隔絶しなければならないのである。同時に修道女が外に出て、男性と性的な交渉を持つことを懸念して、外出を禁止した可能性がある。
ところが、フロイスは「比丘尼はいつでも遊びに出掛け、ときどき陣立に行く」と記している。これはどういう意味なのか。陣立とは、軍陣のことである。しかし、怪我をした兵士の救護に行っていたわけではない。実は、兵士を相手にして売買春を行っていたのである。
ただし、フロイスは修道院が厳格の場であると主張しているが、実際には売春の場を提供していたことが明らかにされている。修道女が売春をしていたか否かは不明とされているが、少なくとも売春の場を提供することにより教会の運営費を捻出していたようである。