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承久の乱の戦後処理 参考にされたのは源義経の謀反事件

濱田浩一郎歴史家・作家

承久3年(1221)6月、鎌倉幕府方による官軍方の落武者狩りは続いていて、同月19日には、京都六波羅において、錦織判官代・義継が生け捕られました。義継は、弓馬・相撲の達者であり、その力は常人を凌いでいたと言われます(『吾妻鏡』)。

後鳥羽方であった義継は、官軍の敗北後、逃亡していました。ところが、これ以上は逃げ切れないということで、とうとう、姿を現したのです。相手は無双の勇士。何を仕出かすか分かりません。

ということで、幕府方も、義継に対抗できる人選をします。佐野太郎基綱・佐野次郎入道・佐野三郎入道が、義継捕獲メンバーに選抜されたのです。案の定、義継は暴れ、簡単に捕まえることはできませんでした。佐野の郎従が援軍に駆けつけて、やっと取り押さえることができたそうです。

さて、6月23日には、都にいる北条泰時が遣わした使者が鎌倉に到着しました(使者は6月18日に、都を発しています)。「鎌倉幕府軍は官軍に勝利した、戦(承久の乱)は無事に終結した、天下は静謐となった」という内容の書状を見て、鎌倉の人々は、大いに喜んだとのこと。

しかし、喜んでいるばかりではなく、幕府ではすぐに「官軍に味方した公卿や殿上人の罪や、洛中の事」を取り決めようとしました。この取り決めの参考とされたのが、文治元年(1185年)源義経の挙兵・謀反の際の先例でした(『吾妻鏡』)。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』『明徳の乱』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

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