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絶海の孤島で蔓延していた、奇病「バク」と人々の戦い

華盛頓Webライター
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人類の歴史は病気との戦いの歴史と言っても過言ではありません。

日本でも八丈小島ではバクと呼ばれている奇病が蔓延しており、多くの島民を苦しめてきました。

この記事ではバクとの戦いの軌跡について紹介していきます。

バクと呼ばれた奇病

八丈小島は、東京から南に約287km、伊豆諸島の南部に位置する孤島です

その独特な歴史と自然環境は、かつてこの島に住んでいた人々の生活を色濃く映し出しています。

この小さな火山島は、周囲8.7km、面積3.07km²、そして太平山という標高616.6メートルの山を頂に持つ円錐状の地形をしているのです。

海岸線は険しい海食崖に囲まれ、平坦な土地はほとんど見られません。

八丈小島にはかつて二つの村が存在していました。

一つは南東側の宇津木村で、八丈島から直接見ることができる村です。

もう一つは北西側に位置する鳥打村で、こちらは八丈島からは見えない位置にありました。

険しい地形により、これらの村同士の交流はほとんどありませんでした。

島の住民を長年にわたり苦しめたのが、「バク」と呼ばれる風土病でした。

この病は、特に八丈島の人々から恐れられており、漁師や海女たちは小島近くでの漁を行っても、決して島に上陸することはなかったのです。

バクにかかった島民は、寒気と発熱に襲われ、震えが止まらず、日常生活に大きな支障をきたしました。

特に、足のリンパ節が腫れ、皮膚が肥厚し、痒みに苦しむ症状が特徴的だったのです。

島民たちは、病気の原因が島の水にあると信じ、諦めの中でこの病と向き合ってきました。

このようにバクがもたらす苦しみは、彼らにとって避けられない運命のようなものであったのです。

このような厳しい環境で生き抜いた八丈小島の住民たちの姿は、自然と人間の関係性を考える上で、現代においても多くの示唆を与えてくれます。

病とともに生きた彼らの歴史は、決して忘れてはならないものです。

バクVS西洋医学

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1896年(明治29年)2月、日本の近代医学界にとって重要な調査が行われました。

内務省(現在の厚生労働省の前進)の中浜東一郎が、八丈小島に伝わる奇病「バク」の正体を解明するため、厳しい気象条件と交通の悪さを乗り越えて現地調査に赴いたのです。

この調査は、日本国内で風土病が広く認識され始めた時期に行われたもので、特に八丈小島のような孤島においては、調査そのものが大きな挑戦でした。

「バク」とは、八丈小島に古くから存在した奇病で、当時の医学的知識ではその正体は不明でした。

中浜は、この病気が象皮病(エレファンティアシス)の一種であることを確認し、さらにその原因がフィラリアによるものである可能性を考察したのです。

しかし、当時の日本ではフィラリアに関する知見が限られており、マレー糸状虫が新種として記載されるのは、まだ30年も後のことでした。

中浜東一郎の調査は、八丈小島に渡ること自体が困難な状況で行われました。

彼とその調査チームは、悪天候により八丈島で足止めを食らい、やっとの思いで八丈小島に上陸した後も、険しい断崖絶壁の小路を通って村々を訪ね歩いたのです。

彼らが初めて目にした「バク」の症状は、象皮病として知られる脚の異常な肥大であり、この病態が島民の生活にどれほど深刻な影響を与えていたかを目の当たりにしました。

八丈小島での調査は、現地の島民にとっては大変な意味を持っていたのです。

医師が訪れること自体が非常に稀なこの島では、中浜たちが行った診察や薬の投与は、島民にとってまさに救いの手でした。

調査は限られた時間の中で行われ、天候の悪化によりさらに時間が制約される中、彼らは可能な限り多くの情報を集めようとしたのです。

その後の調査では、八丈本島でも数例の象皮病が確認されており、これもフィラリアが原因であると後に判明したのです。

この調査は、当時の日本の公衆衛生に関する知識を大きく進展させたものであり、中浜東一郎の名前は、後に日本の医療史に残ることとなりました。

八丈小島での困難な調査は、近代日本の医学が直面した多くの課題を象徴するものであり、彼の功績は、後の世代にとっても大いに評価されるべきものであります。

Webライター

歴史能力検定2級の華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

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