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危険を冒して来日した宣教師、シドッチの軌跡

華盛頓Webライター
credit:pixabay

江戸時代、日本は鎖国体制を敷いていたこともあり、西洋との交流は一部を除いてほとんどありませんでした。

しかしそのような中でも日本への密航を試みた宣教師がおり、彼の名前はシドッチです。

この記事ではシドッチが日本に来るまでの軌跡について取り上げていきます。

シドッチ、来日

井上正重が宗門改役として活躍していた時代は、まるで霧が深く立ち込める山道を一歩一歩進むような厳格さと緊張感に満ちていました。

彼が実施した宗門糾明の方法は、冷徹かつ緻密であり、20年もの間、キリシタンを根絶やしにするための努力を惜しまなかったのです。

その結果、日本に潜り込んで布教を試みる西洋人宣教師は姿を消し、ひっそりとした平穏が続くかと思われました。

しかし、1708年の秋の風に乗って、物語は思わぬ方向へと動き出します。異国の地、シチリア島から一人の聖職者が現れたのです。

ジョバンニ・バッティスタ・シドッチ

彼は幼少時代から知識を吸収し、ローマ教皇庁の法律顧問にまで上り詰めた男です。

しかし彼の奥底には心の奥底には鎖国中の国家、日本に対する情熱が燃えていたのです。

そのため彼は聖職者としての仕事の傍ら日本語を学び、カタコトでなら日本語を何とか話せる程度にまでこの技術を向上させました。

そして1708年の10月、彼は満を持して屋久島にひっそりと上陸しました

髷を結い、刀を帯びた武士の姿で

あたかもこの異国の地で自分が生まれ育ったかのように。

しかし、その異様な姿をした青い目の侍はすぐに島民に見抜かれ、彼は役人に報告され捕らえられたのです。

シドッチは長崎奉行所へと送られ、そこで彼を待っていたのが、オランダ語通詞の今村源右衛門です

今村は西洋文化に触れ、ケンペルの助手として多くの知識を得た人物でした。

彼の手元にはラテン語辞書があり、シドッチとの対話を通して、少しずつその謎に迫ろうとしたのです。

しかし、言葉の壁は高く、初日の尋問ではポルトガル語と日本語のわずかな部分しか通じませんでした

だが、ラテン語が使えることがわかると、今村はダウというオランダ商務員補の助けを借りて、ラテン語でのやり取りを試みることとなります

やがて12月30日、幕府側は「24箇条」の質問を用意し、シドッチからの回答を得るための大掛かりな尋問が行われました。

そのやり取りは複雑で、通詞とオランダ商館の人々が協力して翻訳を進めるも、シドッチの態度はどこか威厳に満ち、尋問官たちを困惑させたのです。

新井白石の記録にも、シドッチの振る舞いについて「彼の礼儀は豪傑そのものであった」とあります。

この物語は、異文化の出会いと、誤解の中で揺れ動く日本と西洋の関係を象徴しているかのようでした。

参考文献

泰田伊知朗(2022)『ラテン語受容史における切支丹屋敷』観光学研究 21号

Webライター

歴史能力検定2級の華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

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