日本に数多の西洋の知識を伝えた宣教師、シドッチの軌跡
江戸時代、日本は鎖国体制を敷いていたこともあり、西洋との交流は一部を除いてほとんどありませんでした。
しかしそのような中でも日本への密航を試みた宣教師がおり、彼の名前はシドッチです。
この記事ではシドッチと新井白石の邂逅を中心に取り上げていきます。
遂に新井白石と対面したシドッチ
秋の風が吹き抜ける江戸の切支丹屋敷、新井白石とシドッチが初めて顔を合わせたのは、ついにその時でありました。
1709年11月22日、シドッチは通詞たちに伴われ、異国の知識を携えながらも穏やかに立っていたのです。
彼に同行したのは長崎からの通詞、今村、品川、加福の三人。
しかし、ラテン語に不慣れな彼らが通訳することは困難であり、新井はその点を考慮して彼らにこう告げました。
「オランダ語を基にイタリア語を推測すれば、七、八割は通じるだろうが、正確さには欠けるかもしれない。とはいえ、推測で語ることは許されるし、間違いがあっても責めることはない」と。
新井はまた、同席していた奉行たちにも同様の忠告を与え、通詞たちが誤訳をしても寛容に受け入れるように促しました。
尋問が始まると、シドッチは日本語を話し出したのです。
その日本語は、九州や四国の方言が混ざり、外国人特有の発音が加わっていたため、新井には聞き取りにくいこともありました。
しかし、シドッチはそのことを察し、繰り返し言葉を発しながら、誤りを訂正する場面も少なくなかったのです。
シドッチは尋問の合間に、自らが日本語をどこで学んだのかを新井に語りました。
それはフィリピンのルソン島で日本人から教わったとのことです。
そして、彼は新井に二冊の書物を差し出しました。
新井がそれらの書物を手に取ると、そこには「ヒイタサントールム」や「デキショナアリヨム」と書かれていた。
これらの書物は、西洋の宗教や言語について記されたものであり、新井はそれらを通してシドッチの学識の深さに感嘆したのです。
シドッチとの対話を通じて、新井は西洋の風俗や地理、歴史についての知識を深め、その後、『西洋紀聞』を執筆するに至りました。
シドッチから得た知識は日本における西洋文化の受容に大きな影響を与え、蘭学の興隆にも先駆ける存在となったのです。
新井の筆は、ラテン語やギリシャ語、さらにはキリスト教の歴史までも網羅し、彼の学識は江戸の知識層に広く伝えられたことが窺えます。
参考文献
泰田伊知朗(2022)『ラテン語受容史における切支丹屋敷』観光学研究 21号