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【先取り「どうする家康」】徳川家康の三大危機の1つ「三方ヶ原の戦い」とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
武田信玄。(提供:アフロ)

 1月8日からNHK大河ドラマ「どうする家康」がはじまる。NHKの「歴史探偵」では徳川家康の三大危機の1つ三方ヶ原の戦いを取り上げていたので、詳しく解説することにしたい。

 元亀3年(1572)10月3日、信玄は上洛するため、本拠の甲府(山梨県甲府市)を出発した。武田軍は、3つに分かれて進軍したという。

 重臣の山県昌景は約5千の軍勢を率い、信濃国から東三河に攻め込み、菅沼氏が籠る武節城(愛知県豊田市)、長篠城(同新城市)を攻略した。これにより、徳川方は窮地に陥った。その勢いでもって、山県勢は遠江国へ向かったのである。

 一方、秋山虎繁は約2千5百の軍勢を率いて、居城の高遠城(長野県伊那市)を出発すると、遠山氏が籠る岩村城(岐阜県恵那市)を攻略した。本隊を率いる信玄は、約2万5千の軍勢で信濃国を通過し、遠江国との境にある青崩峠から攻め込んだ。

 10月13日、別働部隊を率いた馬場信春は、徳川方の只来城(静岡県浜松市)を落とした。そして、信玄の本隊と馬場氏が目指したのは、二俣城(同)である。

 二俣城は家康の本拠がある浜松城、支城となる掛川城(静岡県掛川市)、高天神城(同)を結ぶ中間地点にあった。支城ネットワークを構成する重要な城だったのだ。

 家康は二俣城を守るため、本多忠勝らを出陣させるが、一言坂(静岡県磐田市)の戦いで武田軍に敗北した。

 勢いを得た武田軍は、そのまま二俣城を攻囲した。二俣城には城代の中根正照以下、約1千2百の軍勢が籠っていたが、武田方の降伏勧告にも従わず、粘り強く戦った。

 しかし、しょせんは多勢に無勢で、しかも天竜川の水の手を断たれたこともあり、12月19日に二俣城は降伏・開城を余儀なくされた。一連の戦いによって、信玄は遠江国北部を制圧したのである。

 12月22日、武田方は二俣城を出発し、西へと進路を取った。そして、家康も浜松城を発つと、織田軍の援軍とともに武田方を迎え撃とうとした。そこで、戦場となったのが三方ヶ原(静岡県浜松市北区三方原町)である。

 戦いは短時間で決し、徳川方は約2千もの戦死者を出して敗走した。一方の武田方の戦死者は、わずか2百余にすぎなかった。ただ、残念なことに、合戦の詳しい経過は不明な点が多い。

 徳川方は、三方ヶ原の戦いで多くの有力な家臣を失ったので、大打撃を受けたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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