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「石巻日日こども新聞」 3.11知らない世代と歩む…コロナ禍も発行続け記事500本【#あれから私は

なかのかおりジャーナリスト(福祉・医療・労働)、早稲田大研究所招聘研究員
コロナ禍はこども記者で集まる機会がなく、貴重な写真だという(太田さん提供)

宮城県石巻市で東日本大震災後に始まった「石巻日日こども新聞」。2012年の創刊からコロナ禍も新聞を作り続け、こども記者が出した記事はおよそ500本に及ぶ。その活動が認められ、2021年3月2日、吉川英治文化賞を受賞した。NEWSの加藤シゲアキさんが同文学新人賞に決まったニュースでにぎわうかたわら、こども新聞創設者の太田倫子さんと筆者は、受賞を喜び合った。

〇キャリア転々、故郷に戻ったら震災

 「石巻日日こども新聞」を始めたのは、石巻出身の太田倫子さん。高校まで地元で過ごし、東京外語大に進み、アラビア語を学んだ。小さな商社で働いた後、留学を経てブリュッセルの銀行の支店に勤めた。

 1998年に帰国し、森ビルで美術館の運営に関わった。両親がいる東北に帰りたいと2008年、山形の農家をPRする仕事についた。その後、仙台の会社に転職したが11年、震災が起こって自宅待機に。仙台や石巻の小学校でボランティア活動に加わり、子どもたちのアクティビティが少ないと感じた。

 友人がインド人のマジシャンを呼び、太田さんも一緒に学校を回った。津波の被害が大きかった地域の子どもたちは笑顔がなく、「笑ってはいけない」と気を使っていることに衝撃を受けた。「気持ちや感情を表現する場がいると思いました。心の中に閉じ込めておくとトラウマになる。家庭や学校は大変な状況だったので、それ以外の居場所が必要でした」

 内閣府の助成を得て11年末に仙台市で社団法人を設立。「新聞を作ろう」と決めた。国内外の友人に、「何かしてあげたい」「どうしてる?」と言われていた。新聞を作って発信すれば、何が必要かわかり地元の応援になる。読者の反応が得られたら、子どもたちのやる気も上がると思った。

こども記者と太田さん 石巻市で2017年、なかのかおり撮影
こども記者と太田さん 石巻市で2017年、なかのかおり撮影

〇地元紙の協力で新聞作り

 新聞にするなら、きちんと形にしたかった。地元の夕刊紙「石巻日日新聞」が震災後、記者の手書きで壁新聞を作り、避難所に貼りだして情報を届けていた。「小さいころから、なじみのある新聞でした。こども新聞の企画書を持って、当時の報道部長を訪問したんです。協力していただけないかと言ったら、すぐにやりましょうと」

 毎週土曜日、石巻市内でワークショップを開く。そこに希望者が参加し、取材や執筆、校正や発送作業をして年に4回、発行する。2012年3月の創刊号のテーマは「ありがとう」。3号は「未来を考えよう」。題字のデザインや、キャラクター「しんちゃん」の絵は、こども記者が書いた。

 初めは日日新聞の記者が取材や執筆について教えに来てくれた。レイアウトも日日新聞の編集者が手がけ、通常の新聞と同じ仕様で4面。実費で印刷してもらい、3万部を発行する。太田さんのほかに、大人スタッフ数人が子どもたちの文章の書き起こしや取材の付き添いなどをしてきた。

〇子どもたちのエンパワメントに

 読者からは「孫を見守っているようで楽しみ」「読みやすい」と感想が届く。こども記者が取材で高齢者を訪ねると喜ばれ、「あの人のところにも行ったら」と紹介される。

 太田さん自身は子育て経験はないが、親でも先生でもない立場だからこそ、子どもたちの良さがわかるし、支えられると思っている。「震災後に大きな病気をして、子どもたちにエネルギーをもらいました。同じ目線で、背中を押し続けています」

 筆者も、こども記者に話を聞いた。「また地震が起きるのでは」と不安を抱えるヒロキ記者は、活動が心のよりどころになった。「この人に会いたい」と積極的に企画し、話の聞き方も工夫する。自由に表現できるのがいいという。他のこども記者も、地元の様々な仕事を知ったり、イギリス取材を実現させたり。新聞社に就職した子、看護科に進んだ子もいる。経験が子どもたちを力づけ、心の成長にもつながっていると感じた。

〇日常が戻って新しい企画も

 震災から月日が流れ、どうやってこども新聞を運営していくかが課題だ。震災後しばらくは行く所がなく、こども新聞は貴重な居場所だった。日常が戻ってくると、部活や習い事、受験勉強と子どもたちは忙しい。

 成長して卒業する子も増え、定期的に参加する子が少なくなった。登録は60人ほどで、新しいメンバーも入ってくるもののレギュラーは5~6人。最近は子どもたちの都合に合わせて取材したいテーマを聞き、活動を設定している。

「以前は、自分たちだけぬくぬくしていていいのかという気持ちが地元の大人にもあった。何かしなきゃと思って動いた時期は終わってしまったんです」(太田さん)

 2017年は新しい企画を考え、企業の助成金を得た。「石巻日日こども商店」として商品を作り、収入にする。こども新聞を知って応援を申し出た宮崎県の企業とコラボレーションし、缶詰のパッケージデザインを受け持つ。また、こども記者のデザインで段ボールメーカーと募金箱を作った。こども新聞が活動する施設「石巻ニューゼ」の商店コーナーやコンビニエンスストア、ウェブサイトで販売している。

〇活動リニューアル、資金調達が課題

 毎週のワークショップは、子どもたちのモチベーションが上がるプログラムにしようと見直しを検討。「こども記者の養成講座にして毎月1回、1年間来てもらう」というプランもある。現在は、こども記者のノウハウを盛り込んだテキストを作っているところだ。あいさつやインタビューの基本、メモの取り方、タイトルのつけ方など大人スタッフがまとめている。

 資金についても模索中だ。こども新聞の活動は、無料で参加できる。基本は、年間で一口3000円からの「サポーター」に支えられる。運営母体を昨年末、寄付を集めやすい公益社団法人にして、名前も「こどもみらい研究所」と変えた。

「震災後の活動は過渡期にあり、助成金の打ち切りも少なくありません。こども新聞も『復興の試みなのか』と助成元から指摘されました。しっかり経済基盤を持って活動するべきで、資金の調達は課題。参加者からは費用を取らず、余裕のある第三者が負担するモデルを作りたいんです」

創刊号(提供)
創刊号(提供)

〇熊本のヘリで救助された記者が取材

 2018年3月11日に発行した25号には、様々な目玉記事が掲載された。一面トップは、震災当時、熊本の防災ヘリに救助されたリンネ記者(現在は高校生)の記事。同じくヘリで搬送されて無事に出産した石巻の親子を取材した。リンネ記者は震災時の体験を18号に書き、熊本地震が起きた後は現地に取材に行っていた。

 高校生のレン記者と中学生のショウタロウ記者は、福島の相馬にある子どもたちの遊び場を取材。こども新聞も支援を受ける「Tポイント・ジャパン」の寄付でできた場だ。記事を見ると、「原発事故の影響で、子どもたちを外で遊ばせるのが心配という保護者も多い」との一文があった。重いテーマをさらりと表現している。

 今はブラジルに住むモミヂ記者は、石巻のがれきの山で咲いた「ど根性ひまわり」の8世をブラジルで咲かせ、記事にした。このひまわりは種をわけ、国内のあちこちで咲いている。季節の関係で、ブラジルで先に開花したそうだ。

 太田さんは「世界にはたくさんの仕事や役割がある。子どものころから『これが好き』というものを見つけるのに、記者の体験は最適。大人が子どもの良いところを伸ばし成長を手助けする場のモデルとして、全国に広げたい」と願ってきた。

 最近は「震災を忘れない。防災意識や地域愛をはぐくむ場にするのが、こども新聞の一番の目的」と再確認した。「児童と職員84人が亡くなった大川小も、統合される形で歴史を閉じたばかり。震災を語ることが難しくなっていますが、やはり伝えなければならないと思いを新たにしました」

(2018年3月26日、ハフポストに掲載)

〇コロナ禍で効率化・俳句部も活動

 2021年3月2日、太田さんとオンラインで再会した。「吉川英治文化賞を受賞するにあたり、推薦理由を伺ったところ、なかのさんの記事を、関係者が見たのがきっかけとのことでした」と太田さん。コロナ禍もあり、東北の復興に関心が薄くなったように感じることもある。「活動とその報道を知ってもらって、認められるってうれしいですね」と喜び合った。

 コロナ禍は、こども記者が個別に取材したり、オンラインを活用したり、工夫して新聞を発行してきた。石巻日日新聞のスタッフに、引き続き協力してもらっている。大学に進んだ元こども記者が、オンライン授業になって石巻に戻り、先輩として手伝ってくれるという嬉しいできごとも。

 コロナ禍以前にも、こども記者はオンラインツールを使いこなしていて、筆者も石巻を訪れた後、スカイプで追加取材したこともあった。

「コロナで方針転換を強いられましたが、オンラインを活用し、移動が少なくなって、打ち合わせもワークショップも、効率的になったかもしれません。グループで遠くに取材に出かけよう!というような企画はお休み中です。年4回の新聞の発行はできています。数より中身になってきたと思います。

 ワークショップは月に1回、こども俳句部と称して、子どもたちの自主的な部活動形式にしています。俳句の公募に応募し、先日、鳥取県鹿野町のコンクールで2人が佳作入賞。短い言葉で表現するいい練習になっています。最近は、デビューしたこども記者が初めて現場に取材に行き、楽しかったそうです」(太田さん)

〇震災を知らない記者たち

 時間が経つにつれ、震災を知るこども記者が少なくなり、どうやって震災を伝えていくか、太田さんは考えている。

「震災を体験した子たちは、モチベーションが高く、だれかの役に立ちたいという思いがありました。今は、関心を持ちにくいこども記者に、震災をテーマに取材するよう働きかけています。

 ただ、コロナで休校になったことで、学校に行けるありがたさを実感できたみたいですね。家にいるとゲームばかりになるので、こども記者の活動があって良かったと保護者に言われます」

 震災から10年の節目に、卒業したこども記者にも呼びかけ、報告会を開く計画だった。吉川英治文化賞を受賞したので、この夏にお祝いをかねてオンラインで会を開く予定。こども記者主導で準備するという。

ジャーナリスト(福祉・医療・労働)、早稲田大研究所招聘研究員

早大参加のデザイン研究所招聘研究員/新聞社に20年余り勤め、主に生活・医療・労働の取材を担当/ノンフィクション「ダンスだいすき!から生まれた奇跡 アンナ先生とラブジャンクスの挑戦」ラグーナ出版/新刊「ルポ 子どもの居場所と学びの変化『コロナ休校ショック2020』で見えた私たちに必要なこと」/報告書「3.11から10年の福島に学ぶレジリエンス」「社会貢献活動における新しいメディアの役割」/家庭訪問子育て支援・ホームスタートの10年『いっしょにいるよ』/論文「障害者の持続可能な就労に関する研究 ドイツ・日本の現場から」早大社会科学研究科/講談社現代ビジネス・ハフポスト等寄稿

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