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明智光秀は土岐明智氏の出身にあらず。謎多き父の名前と身分の変化。

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
明智光秀(イラスト)(提供:アフロ)

■光秀は土岐明智氏の出身か???

 長らくコロナ渦で撮影が中断された大河ドラマ「麒麟がくる」。8月30日(日)から再び視聴者の前に姿をあらわす。大いに期待したい。ところで、明智光秀の出自や経歴は疑問点が多く、そもそも土岐明智氏(美濃の守護・土岐氏の庶流)を汲むという説すら疑わしいと言われている。以下、光秀の出自について考えてみよう。

■土岐明智氏とは

 美濃の守護・土岐氏は清和源氏の末裔であり、美濃国に本拠を置く名族である。南北朝期以降の土岐氏は、室町幕府から美濃国などに守護職を与えられた。その庶流が土岐明智氏である。土岐明智氏の出身地については、現在の岐阜県恵那市明智町、同可児市広見・瀬田という2つの説がある。互いに明智(知)城址や光秀にまつわる史跡が残るなど、非常にややこしい。

 しかし、恵那市明智町は遠山明智氏ゆかりの地であって、光秀の出身である土岐明智氏に結びつけるのは難しく、可児市広見・瀬田のほうが正しいと結論付けられている。

 土岐明智氏が室町幕府に仕えていたことは、奉公衆(室町幕府の直臣)の名簿である『文安年中御番帳(ぶんあんねんちゅうごばんちょう)』などに外様衆として確認することができる。外様衆は将軍の直臣であり、有力守護の支族が名を連ねるなど、相当な格式と地位があった。そして、土岐明智氏の名は14世紀半ば頃から15世紀の終わりにかけて、多くの一次史料で確認することができる。一次史料とは、同時代の古文書などである。

■謎多き光秀の父

 光秀の父の名前については、諸説ある。現在、知られている系図類では、光綱とするもの、光隆とするもの、光国とするものに分かれており一致しない。整理すると、次のようになろう。

  1. 光綱――「明智系図」(『系図纂要』所収)、「明智氏一族宮城家相伝系図書」(『大日本史料』11―1所収)。
  2. 光隆――「明智系図」(『続群書類従』所収)、「明智系図」(『鈴木叢書』所収)。
  3. 光国――「土岐系図」(『続群書類従』所収)。

 なお、光秀の父の存在を示す一次史料は皆無である。系図によって父の名前が違い、その存在について史料的な裏付けが取れないのであるから、これらの系図の記載を詮索しても意味がない。光秀の父については、不詳といわざるを得ない。

■光秀の来歴に関する史料

 ほかに光秀が土岐明智氏の出身だったことを物語る史料はないのか?重要な史料としては『立入左京亮入道隆佐記(たてりさきょうのすけにゅうどうりゅうさき)』がある。この史料は禁裏御倉職(きんりみくらしき。朝廷の財政を管理した)の立入宗継(むねつぐ)が見聞した出来事等の覚書を集成したもので、七世の孫・中務大丞経徳が江戸時代に書写したものである。

 同史料には天正7年(1579)に光秀が丹波を平定した際、信長から丹波一国を与えられたことを記し、光秀を「美濃国住人とき(土岐)の随分衆也」と記録する。随分衆とは土岐氏の家中にあって、高い地位にあったことを示している。ただし、隆佐が光秀の経歴を詳しく知っていたかは不明であり、根拠史料としては弱い。

■光秀は奉公衆だったのか?

 奉公衆の名簿『永禄六年諸役人附』には足軽衆として、「明智」の姓が記されており、この明智が光秀であると考えられてきた。ただ、肝心の名前が記されていないので、この「明智」が光秀である確証はない。足軽衆とは単なる兵卒ではなく、将軍を警護する実働部隊と考えてよいであろう。

 『永禄六年諸役人附』に記載された足軽衆は、名字しか記されていない者も多く、おおむね無名の面々ばかりである。奉公衆クラスを出自とする者はいない。なぜ、名門の土岐明智氏の流れを汲む光秀が、足軽衆という低い地位に止まったのか不審である。かつて土岐明智氏は、外様衆という高い身分にあったからだ。

 『永禄六年諸役人附』の「明智」が光秀と同一人物であるか否かは不明であるが、いずれにしても当時の明智氏(あるいは光秀)は、まったくの無名の存在であったと考えられる。『永禄六年諸役人附』の記述をもって、光秀を名門の土岐明智氏に繋げるには、あまりに強引かつ材料不足である。

■光秀は土岐明智氏の出身とは言えない

 これまでの光秀は、名門・土岐明智氏の系譜を引くと考えられてきた。しかし、疑問点を整理すると次のようになり、その可能性は極めて低いといえる。

  1. 光秀が土岐明智氏の流れを汲むという一次史料はなく、残っているのは質の低い二次史料(後世の編纂物)ばかりである。
  2. 系図史料でさえも光秀の父の名が異なっており、大いに不審である。
  3. 光秀が土岐明智氏の流れを汲むとするならば、なぜ外様衆クラスから足軽衆に格下げになったのか疑問である。

 これまでの光秀は、外様衆の土岐明智氏を出自とすると考えられてきたが、たしかな裏付けとなる史料がなく、現時点ではその可能性は低い。今、残っている史料からは言えないというのが正確かもしれない。光秀が土岐明智氏の名字を勝手に名乗っているか、名跡を継いだという可能性も残されている。土岐明智氏が15世紀後半頃から姿を消していることも、何か関係しているのかもしれない。

 したがって、結論としては光秀が土岐明智氏の出自であることについて、頭から信用するのは危険であるとだけ指摘しておきたい。

【主要参考文献】

渡邊大門『明智光秀と本能寺の変』(ちくま新書、2019年)

渡邊大門『光秀と信長 本能寺の変に黒幕はいたのか』(草思社文庫、2019年)

以上

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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