【「麒麟がくる」コラム】天正2年の越前一向一揆攻めで、明智光秀はいかに戦ったのか
■京都支配と明智光秀
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」のなかでは、天正2年(1574)の越前一向一揆攻めで、明智光秀がいかに戦ったのか詳しく語られていなかった。
以下、天正2年(1574)の越前一向一揆攻めにおける明智光秀の戦いぶりについて考えることにしよう。
■急変した越前の情勢
光秀が丹波攻めを行う前に、越前で事態が急変した。天正元年(1573)8月に越前朝倉氏が滅亡すると、その後の越前支配は天正2年(1574)1月にかけて、朝倉氏旧臣の前波(桂田)長俊が担当した。
ところが、天正2年(1574)1月18日、長俊に反感を持った朝倉氏旧臣の富田長繁は、越前国内の一揆勢約2300とともに、長俊の本拠である一乗谷(福井市)に攻め込んだ。
一揆勢の攻撃により、長俊はあっけなく討ち死にした。やがて越前一向一揆は国中を席巻し、ついに「一揆持」の国と化したのである(『信長公記』)。
■越前一向一揆攻めの敢行
この一報を耳にした織田信長は、越前一向一揆の討伐を決意する。同年8月14日、敦賀(福井県敦賀市)に集結した織田軍は、翌日に軍勢を明智光秀、羽柴(豊臣)秀吉、柴田勝家ら、丹羽長秀、滝川一益、蜂屋頼隆らの二手に分け、一斉に攻撃を開始した。
織田軍の攻撃は凄まじく、府中町だけでも約1500の戦死者が出た(「泉文書」)。これはまだ序の口にすぎず、同年8月15日から19日の間には、12000余の人々が大量虐殺された。
首を斬るのはもちろんのこと、鼻を削ぐなど残虐な行為が行われ、総計で30000~40000の人々が惨殺されたと伝わる。この大虐殺に光秀が加担したのは疑いない。
■越前平定後の措置
こうして越前は平定され、柴田勝家らに支配が任された。越前攻めの際、光秀は小畠左馬進に書状を送っている(「大阪青山大学所蔵文書」)。内容を確認しておこう。
書状の冒頭では、傷を負った左馬進の具合を心配している。すでに左馬進は、光秀不在のなかで丹波攻略に出陣していた模様である。これをもって「光秀は医者だった」という向きもあるが、配下の者の怪我の具合を尋ねる手紙は珍しくない。
次に、越前府中で敵を数多く討ち取ったこと、明後日(8月23日)には加賀へ出陣すること、それらを平定してのちには帰陣する旨が書かれている。
追伸部分では、戦いが終わったら丹波に攻め込み、宇津氏を討伐することが伝えられ、丹波の上林衆が「道はよい」と言っているが、本当か確認をしてほしいと依頼した。
■信長の知行割
同年9月に信長が越前の知行割を行うと、直ちに諸将に対して出陣命令が出された(「細川家文書」)。光秀は、丹波への出兵を命じられた。
その後の知行については、一色義定に丹後が、細川藤孝に丹波桑田郡と船井郡が与えられる約束になっていた。細川藤孝に2郡が与えられるのには理由があり、同年3月および翌年秋の大坂本願寺との戦いを見据えた信長は、すでに先の2郡の侍たちを藤孝に預けていたのだ。
天正3年(1575)に比定される9月21日付の光秀書状は、威徳院(京都市右京区)に宛てたものである(『思文閣墨蹟資料目録』)。
内容は本日(9月21日)、出陣するに際しての戦勝祈願で、光秀は銀子5枚を奉納した。こうして、光秀は丹波に出陣したのである。