「旅する言葉の職人」だった、永六輔さんの全体像とは!?
永六輔さんが83歳で亡くなったのは、一昨年の7月7日のことです。その活動は1953年にテレビが始まる前のラジオからであり、放送作家、作詞家、タレント、作家と多才な人でした。
多才であるがゆえに、なかなか捉えきれない全体像を、その名「六輔」にちなんだ「六面体」で描いたのが、隈元信一さんの近著『永六輔~時代を旅した言葉の職人』(平凡社新書)です。元朝日新聞論説委員の隈元さんは、放送記者としての長い経験をもっています。「旅の坊主」「ラジオ屋」「テレビ乞食」「遊芸渡世人」「反戦じいさん」「ジャーナリスト」という6つの視点(坊主、乞食も含め原文のまま)が秀逸です。
私自身、かつてテレビマンユニオンに所属し、旅番組『遠くへ行きたい』(日本テレビ系)の制作に携わっていたこともあり、永さん本人にも何度かお会いしてきましたが、6つの視点の中の<旅するお坊さん>というイメージが、元浅草のお寺の子として生まれた永さんには、もっとも似合うように思います。
日常の基本は旅暮らし。全国どこへでも足を運ぶ。そこでの見聞や考えたことをマイクの前で話す。まるで寺を持たぬ僧侶が、電波を通じて行う辻説法でした。
1967年に『どこか遠くへ』(TBS系)というタイトルで始まったラジオ番組は、2年後に『誰かとどこかで』と改名され、2013年まで46年9ヵ月も続くロングランとなりました。
またテレビにおける代表作のひとつが『夢であいましょう』(NHK、61~66年)です。ラジオ番組『日曜娯楽版』(NHK)、日本初の音楽バラエティー『光子の窓』(日本テレビ系、58~60年)、さらに大阪労音のミュージカルの仕事。永さんが、3つの体験を投入したこの番組は、後のテレビ文化にも大きく貢献していきます。
70年に始まり現在も続く『遠くへ行きたい』は、当初、永さんが毎回一人で旅をする『六輔さすらいの旅・遠くへ行きたい』という名の番組でした。名所・旧跡や美しい風景を紹介するのではなく、旅でしか味わえない「見知らぬ町の横丁を曲がる愛しさ」を教えてくれたのも永さんです。
そんな<旅するお坊さん>はまた、市井の人たちに寄り添う「世間師としてのジャーナリスト」でもあったと隈元さん。確かに、そうですね。憲法についてはもちろん、老いや病いとのつき合い方も伝え続けてくれた永さんに、あらためて感謝したいと思います。