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なぜ石川数正は徳川家康の元から出奔したのか!? その当然すぎる理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:アフロ)

 今回の「どうする家康」では、ついに石川数正が徳川家康の元から出奔したが、なぜ数正が出て行ったのかを考えることにしよう。

 天正13年(1585)6月、織田信雄は家康に書状を送った(「久能山東照宮博物館所蔵文書」)。当時、豊臣秀吉は佐々成政を討伐すべく越中に出陣中だったが、家康が成政とともに秀吉に対抗するとの噂が流れた。そこで、信雄は家康に対して、家老の中から人質を差し出すよう勧めたのである。

 加えて、成政が家康の領国に逃げ込むことがあれば、秀吉は遺恨を抱くだろうとした。とはいえ、家康はすぐに人質を出さず、引き続き家中で対応を話し合った。その際、人質を出すよう主張したのは、秀吉の取次を務めた石川数正だった。

 10月28日、国衆らと相談した結果、家康は秀吉に人質を出さないことにした(『家忠日記』)。その後、北条氏と起請文を交わし、同盟を結んだのである。

 それを受けて、北条氏は家康が秀吉と開戦することがあれば、加勢することを伝えた(「古簡雑纂」)。そのような最中、数正が徳川家中を出奔し、秀吉のもとに走ったのである。以下、経緯を確認しよう。

 11月13日、数正が家中を出奔したとの情報が流れた(『家忠日記』)。数正は女房衆を連れて、尾張に退いたというが、出奔した理由は記されていない。家康にとって、数正の出奔は大きな打撃となった。

 11月15日、家康は同盟者の北条氏直に書状を送り、数正が出奔して尾張に向かったことを知らせた。家康が氏直に報告したのは、同盟者にとっても重要な情報だったからだろう。

 11月17日、秀吉は数正出奔に関わる書状を発給した(「稲村正太郎氏所蔵文書」)。そこからは、数正が出奔した事情をうかがえる。

 数正が足弱(女性・子供)らと尾張国熱田(名古屋市熱田区)にやって来たことは、信雄から秀吉に報告があった。秀吉は心もとないだろうと思い、配下の津田盛月と富田一白人を数正のもとに向かわせた。そして、急いで近江あたりまで数正に来てもらい、家康の考えなどを直接聞こうとした。秀吉は迎えまで送ろうというのだから、かなり丁重な対応である。

 数正が徳川家中から出奔した理由は、史料に書かれていないが、いくつかの説が示されている。数正は徳川方の使者として、何度も秀吉のもとを訪れていた。数正が秀吉と面会を重ねるうちに、その実力に気付くのは時間が掛からなかっただろう。

 一方、徳川家中では、秀吉への対応について、種々議論が重ねられた。先述したとおり、数正の立場は秀吉と友好的な関係を続けることであり、佐々成政の一件をめぐっては、信雄の助言に従って人質を出すことに賛成だった。

 しかし、ほかの家臣には強硬派が多く、最終的に人質は出さないことになった。こうした決定を受け、数正は徳川家中で孤立していったと考えられる。先述した信濃小笠原氏が徳川家から離反した件についても、指南を行っていたのが数正だった。それは数正の失態であり、家中での立場を失わせる結果となった。

 こうした一連の流れが、数正が出奔した理由ではなかったかと考えられている。徳川家中に居づらくなった数正は、秀吉を頼らざるを得なかった。そして、秀吉は数正を歓迎したのである。

 数正はこのときまで、家康の偏諱を授けられ「康輝」と名乗っていたが、秀吉に属してからは、その偏諱を与えられて「吉輝」と名乗りを変えた。これは、まさしく秀吉と数正の主従関係の証であった。数正は名実ともに徳川家を捨て、豊臣家の配下になったのである。

主要参考文献

渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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