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大坂夏の陣で、真田信繁の攻撃を受けた徳川家康が逃げまくった話は事実なのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」が12月17日で最終回を迎え、真田信繁と徳川家康が対峙する場面があった。家康が信繁の猛攻に苦しめられたのは事実だが、一説によると、家康が逃げまくったという話がある。その話が事実なのか、検討することにしよう。

 慶長20年(1615)5月の大坂夏の陣では、真田信繁が新兵器を作り出し、家康を追い詰めたという逸話がある。家康が信繁に苦戦を強いられたのは事実であるが、信繁が地雷火(「火竜の備」などともいう)を用いて、家康に火傷を負わせたという話がそれだ(『厭蝕太平楽記』など)。以下、内容を確認しておこう。

 家康は信繁から平野におびき出され、陣を構えた辻堂の近くで小用を足していると、突然、大爆音が響き渡り、辻堂も地蔵尊ごと吹き飛ばされた。これが信繁の用いた、地雷火による焼き討ちだ。空中に飛び上がった火竜は焔硝(火薬)に引火し、まるで石矢火(銃)を放ったような状態になった。こうして家康は体に何箇所も火傷をして、命からがら脱出したという。

 逃亡した家康は、伊達政宗に助けられ、徳川方の諸将も駆けつけた。しかし、家康は信繁方の根津甚八、増田兵太夫に待ち伏せされ、再び打ち負かされた。進退窮まった家康は切腹しようとしたが、大久保彦左衛門に諌められたので取り止め、住吉へ逃れようとした。

 しかし、家康は再び信繁方の伏兵に大砲を撃ちこまれたので、わずか13名の従者とともに我孫子村(大阪市住吉区)に向かおうとした。ここでも、家康は豊臣方の伊藤丹後守に襲撃されたが、徳川方と内通していた浅井周防守により助かった。結局、家康は岸和田(大阪府岸和田市)を経て貝塚(同貝塚市)まで逃亡し、子の秀忠も父と同じような酷い目に遭った。

 ほかの軍記では、地雷火は着弾すると同時に、破裂して異様な臭気が噴出し、徳川軍の兵を悩ませたという話や、着弾すると地雷火から虫が飛び出すという仕組みの話もあった。いずれにしても、この話が創作であることはよく知られた事実である。いかに信繁が戦いに優れていたとはいえ、短期間で地雷火を発明したとは思えない。

 地雷火の逸話は『通俗三国志』などを素材として、創作された話である。信繁は一牢人に過ぎなかったが、地雷火という武器と奇策を用いて、天下人である家康、秀忠をぎりぎりまで追い詰めた。一方、家康と秀忠は信繁を上回る軍勢を率いながらも、その作戦に翻弄され、ひたすら逃げるだけである。ただ残念なことに、信繁はあと一歩のところで家康、秀忠を取り逃がしてしまう。

 人々はいかに作り話とはいえ、信繁が意外な作戦で家康らを追い詰めたことに歓喜し、信繁に「悲劇のヒーロー」という姿も重ね合わせた。こうした数々の創作が、信繁の虚像を作り出した感は否めない。

主要参考文献

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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