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内野5人シフトを敷いた横浜 広島商との因縁と共通点、あの怪物の存在 明治神宮大会決勝、横浜―広島商

安藤嘉浩スポーツ文化ジャーナリスト/元朝日新聞編集委員
左翼手が二塁ベース付近で守る横浜の5人内野シフト

 明治神宮野球大会の高校の部で、横浜(神奈川)が「内野5人」シフトを披露して、野球ファンをざわつかせた。

 関東大会優勝の横浜と、近畿大会優勝の東洋大姫路(兵庫)が激突した準決勝(11月23日)は、両校譲らず、1-1の同点のまま、無死一、二塁から攻撃が始まる延長タイブレーク制にもつれ込んだ。

 10回表、横浜は無得点。その裏、東洋大姫路が送りバント、申告故意四球で1死満塁としたところで、横浜ベンチが動いた。

 左翼手の大石宙汰(2年)を内野手の林田滉生(1年)に替え、二塁ベース付近を守らせる「内野5人」シフトを敷いたのだ。

1000回に1回のプレーを、当たり前にできた

 中堅手と右翼手はほぼ定位置で守っているから、中堅から左翼方向の外野スペース半分は、がら空きになる。

 「1点取られたら終わりという場面で、引っ張れないというバッターのデータも分析できていたので」

 横浜の村田浩明監督は試合後、こともなげに説明した。

 東洋大姫路の打者は、9番の阪下漣(2年)。投手ながら、バッティングもいい。ただし、今大会ここまでの打撃結果を確認しても、送りバント2回のほかは、空振り三振、右前安打、中越え二塁打、二ゴロ併殺打、右前安打と、確かに左方向へ引っ張った打球はない。

 「選手が勝負しているので、自分も勝負しないと。負けたら自分の責任。割り切ることも大事なので」

 そして、こうも語った。

 「100回に1回、1000回に1回あるかないかのプレーかもしれませんが、練習はしていました。あのシフトを、当たり前に敷けたのが良かったと思っています」

 村田監督によると、投手と打者のタイプや相性などもあり、15通りほどのパターンがあるという。約1年前の遠征試合でも「内野5人」シフトを敷いたことがあるが、その時は一塁ベースと二塁ベースの間を3人で守ったそうだ。こうした場面を想定した練習をして、実戦でも試しているからこそ、大舞台で選手も慌てずに対応することができる。

想定されるプレーをすべて準備する伝統

 今回は左腕エースの奥村頼人(2年)に球威があり、打者が引っ張れないと判断して、このシフトを敷いた。一塁手だけはスクイズに備えて前進守備を敷き、残る4人は二塁併殺にも対応できる中間守備をとった。一塁手がベースに戻れなければ、二塁手が一塁ベースカバーに入る。「そこまで想定していた」という。

 結果的に、奥村が阪下を空振り三振に打ち取って2死満塁。すると、林田に代わって外野手の江坂佳史(1年)を出し、本来のレフトを守らせた。そうやってサヨナラ負けのピンチを切り抜けると、11回表に2点を勝ち越し、3-1で決勝進出を決めた。

 「野球は考えれば考えるほど、色んな作戦がある。これが横浜で渡辺(元智)監督とコーチの小倉(清一郎)さんが作られてきた野球だと思う。私も(現役時代に)それを学んでいますから」

 横浜の部長兼コーチを長く務めた小倉さんが「考えられるプレーをすべて練習して準備する」と語っていたのを思い出す。

怪物から得点するためにひねり出した秘策

 決勝の相手は中国大会優勝の広島商になった。両校には浅からぬ縁がある。

 初めて顔を合わせたのは1973年春、選抜高校野球大会の決勝戦。戦前から夏の選手権大会で4度の全国制覇を誇る強豪の広島商に、20代の渡辺監督率いる初出場の横浜が挑み、延長11回の末に3-1で広島商を破って初優勝を遂げた。

 作新学院(栃木)の「怪物」江川卓が甲子園を席巻した年だった。準々決勝までの3試合を計6安打、49奪三振、3連続完封勝利という圧倒的なピッチングを続ける江川を止めたのが広島商だった。準決勝で2得点を奪い、2‐1で勝利する。

第45回選抜大会1回戦で北陽(大阪)を4安打、19奪三振で完封し、怪物旋風を巻き起こした作新学院(栃木)の江川卓投手
第45回選抜大会1回戦で北陽(大阪)を4安打、19奪三振で完封し、怪物旋風を巻き起こした作新学院(栃木)の江川卓投手写真:岡沢克郎/アフロ

 「関東にバットに当てることもでけんピッチャーがおると、スカウトから聞いとったんでね」。広島商を率いた迫田穆成(さこた・よしあき)監督(故人)に、当時の裏話を聞いたことがある。

 「球が速すぎてバントもでけんというんで、それでも点をとる方法を必死で考えたんじゃ」

 ひねり出した作戦は、こうだ。

 待球戦法で江川に5回まで100球投げさせ、後半に勝負手を打つ。何とかして無死か1死二、三塁の場面をつくり、打者がスクイズを空振りする。三本間に挟まれた三塁走者が、最後は一塁側に回り込むように本塁へ滑り込み、その走者に捕手がタッチするスキに、後ろから来た二塁走者が反対側へ滑り込んで生還する――。

1973年の甲子園大会で春は準優勝、夏は優勝を果たした広島商の佃正樹投手
1973年の甲子園大会で春は準優勝、夏は優勝を果たした広島商の佃正樹投手写真:岡沢克郎/アフロ

 結論から言うと、この作戦は実行されなかった。

 ただ、決勝点は足技でもぎ取っている。四球、二盗、内野安打で2死一、二塁からダブルスチールを仕掛け、捕手の悪送球を誘ったのだ。

 決勝では横浜に惜敗した広島商だが、夏は5度目の全国制覇を果たした。その3回戦では、甲子園で初めて「2ランスクイズ」を成功させている。

 「あれは江川対策の応用じゃった。テレビ中継のカメラは2点目のホームインを追えんかった。なにが起きたか、わからんかったんじゃろ」

 楽しそうに当時を振り返ってくれた迫田さんの豪快な笑い声が懐かしい。

横浜が広商から学んだもの

 いかに1点を取り、いかに1点を防ぐか。そのために、ありとあらゆる可能性を考え、万全の準備をする。

 広島商と横浜に共通する伝統と言っていいだろう。

 ところで、選抜大会で初出場優勝を果たした横浜だが、広島商が優勝した同年夏は、神奈川大会で敗れて甲子園に出場できなかった。その年の秋、渡辺監督は広島商の畠山圭司部長(当時)に連絡し、同校を訪問している。

 「美しく整備されたグラウンドや部室に感動しましたね。お客さんにお茶を出す所作まで美しい。こういう部分が大切なのだと教わりました」

 渡辺さんが語ってくれたことがある。

 その後、渡辺監督は自分自身と選手の人間力を磨き、同校を押しも押されぬ野球名門校へと育てあげた。

江川世代の神宮大会は?

 ところで、横浜と広島商の運命が初めて交錯した1973年は、高校野球が木製バットのみを使用した最後の年になる。翌1974年から、金属製バットが導入されたからだ。その金属製バットが低反発に規制されて初めての明治神宮大会で、両校が再び対戦するというのも不思議な縁だと感じる。

 ちなみに1973年の選抜大会出場校を決める際の参考となった前年の秋季大会で、広島商は中国大会優勝、横浜は江川の作新学院に敗れて関東大会準優勝だった。では、明治神宮大会で優勝したのは…? 調べてみると、この年は高校の部が実施されていなかった。高校の部がスタートするのは1973年の第4回大会になる。

スポーツ文化ジャーナリスト/元朝日新聞編集委員

1965年、岐阜市生まれ。立教大学卒、筑波大学大学院修了。元・朝日新聞編集委員。高校野球を30年以上にわたって取材し、松坂世代や決勝再試合など数々の名勝負に立ち会ったほか、大会運営や100回史(朝日新聞出版)の編集に携わる。メインライターを務めた名勝負連載「あの夏」や「高校野球メソッド」は書籍化された。プロ野球や大学野球、大リーグ、第1回WBCも取材。アテネ五輪では柔道などを担当し、日本の金メダル16個のうち12個の取材に携わった。現在は(株)文化工房(テレビ朝日グループ)のスポーツライター・プロデューサー。

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