「松坂世代」の明治神宮大会で、強烈なインパクトを残した大型右腕
明治神宮野球大会を約30年間、ほぼ欠かさずに取材してきたが、最も強く印象に残っているのは、やはり松坂大輔を擁する横浜(神奈川)が優勝した1997年の大会になる。いわゆる「松坂世代」のドラマは、ここから始まったと言っていいだろう。
松坂のストレートより速いんじゃないか
個人的には、松坂以上に強烈な印象を受けた投手がいた。
沖縄水産の新垣渚である。
当時は神宮球場のお隣にあった神宮第2球場も併用されていた。神宮球場に比べてグラウンドもスタンドも小ぶりだったせいかもしれない。すでに身長が190cmほどあった新垣がマウンドに上がると、本塁までの距離が異常に短く感じられたものだ。長い脚とリーチから放たれるストレートは、あっという間にボールがキャッチャーミットに入ってしまう。対戦した打者もきっと、そんな感覚を抱いたのではないだろうか。
松坂のグワーンッとうなりをあげて伸び上がるような剛速球はもちろんすごかったし、「手元で消える」と言われたスライダーもこのころから鋭かった。ただ、新垣の快速球は、球筋を肉眼で追えないほど速かったという印象が残っている。
2人は順調に勝ち進んで、決勝で対戦した。1回戦、準決勝も1人で投げてきた松坂が5安打3失点(自責点1)で完投し、横浜が5-3で沖縄水産を下した。宮里康との2枚看板だった新垣は8回からリリーフ登板し、2イニングを3安打1失点。うち1安打は松坂に打たれている。
ちなみに、翌年春夏の甲子園大会で横浜の好敵手となるPL学園(大阪)は、この神宮大会に出場してない。大阪府大会2位校として出場した近畿大会は、準々決勝で郡山(奈良)に3-5で敗れている。
近畿代表は彦根東(滋賀)だった。こちらは近畿大会1回戦で関西学院(兵庫)に1-12で6回コールド負けしたが、なぜか神宮大会に出場した。
当時の神宮大会は秋季大会の各地区優勝校が集まる大会ではなかったからだ。北海道と東北、中国と四国は隔年しか出場できず、近畿や四国などは秋季大会の開催時期が遅かったこともあり、必ずしも優勝校が出場していなかった。
「せっかく明治神宮が素晴らしい大会を開催してくれているのだから、神宮大会をもっと活性化したいなあ」と日本高校野球連盟の関係者が語っていたのを覚えている。
「恩返しをしてくれるんやないか」
全国10地区から代表校が集まるようになったのは「松坂世代」の2年後となる1999年から。翌2000年からは各地区の優勝校が集うようになり、名実ともに「秋の日本一」を決める大会となった。そして、2002年からは優勝校の所属地区が翌春の選抜大会出場枠を1増される「明治神宮大会枠」が設けられ、さらに注目される大会となった。
以降、最も多く優勝している地区は東海で5度。東北、近畿、四国が3度で続く。
その結果が翌年春の選抜大会出場枠につながるのだから、悲喜こもごもの反応が見られることになる。
昨年の大会で、こんな場面に居合わせた。テレビ中継のゲスト解説として神宮球場に来ていた馬淵史郎監督の明徳義塾(高知)は、四国大会は準決勝で敗れていた。四国から選抜大会に出場できるのは2校のため厳しい状況にあったが、明治神宮大会枠を獲得すれば可能性が出てくる。
「恩返ししてくれるんやないかと、ひそかに期待しとるんですがねえ」
そう呟きながら、四国代表・高知の1回戦をスタンドで観戦した。
実は明徳義塾は2017年の大会で優勝し、明治神宮大会枠を獲得したことがある。翌年の第90回記念選抜高校野球大会で四国地区は1増の4枠となり、四国大会の準々決勝で敗退したものの準優勝校に善戦した高知が出場切符をつかんでいる。
だから、「恩返し」という表現を使ったのだろう。
その期待に応えるかのように高知も粘り強く戦ったが、延長11回タイブレークの末に豊川(愛知)に敗れてしまい、明治神宮大会枠を獲得することはできなかった。
「夏を目指して、選手とがんばります」と馬淵監督は言い残し、高知へ戻った。その言葉通り、明徳義塾は今夏の甲子園大会への出場を果たした。
そして、今秋の四国大会も制して、明治神宮大会に5年ぶり9回目の出場を決めている。
初戦の相手は、あの横浜。「松坂世代」の夏の甲子園準決勝で、6点のリードを8、9回の2イニングで逆転されてしまった因縁深い相手である。ちなみに、この世代の神宮大会には明徳義塾も出場していたが、1回戦で敦賀気比(福井)に敗れたため、横浜とは対戦していない。
2007年にもそろって出場したが、対戦はなく、これが初顔合わせとなる。ちなみに甲子園では3度対戦し、いずれも横浜が勝利している。