茶々(淀殿)は、母のお市の方と同じく絶世の美女だったのか。豊臣秀吉は美貌に惚れ込んだのか
大河ドラマ「どうする家康」では、北川景子さんが演じる茶々(淀殿)が登場した。北川景子さんは茶々の母のお市の方を演じたので、まさしくサプライズだった。ところで、茶々は母と似て、大変美しかったといわれ、側室に迎えた豊臣秀吉はその美貌に惚れ込んだといわれている。
実は、淀殿を美しかったと書いている史料を目にすることはない。秀吉には多くの側室がいたが、もっとも美しいとされたのが松の丸殿(京極高吉の娘)である。松の丸殿の画像は、京都の誓願寺に残っているが、すでに出家したあとの姿なので、その美貌をうかがい知るのは厳しい。
淀殿が美しいといわれる理由は、天下一の美女だった母のお市の方の娘だったので、その美貌を受け継いでいるはずという点に尽きるであろう。一種の思い込みといえるかもしれない。淀殿のものと伝わる画像は、奈良県立美術館に所蔵され、映画などで女優が演じる際は、必ず参照される作品でもある。
お市の方の画像は、高野山持明院に夫の浅井長政の画像とともに所蔵されている。2つの画像は、長政の17回忌、お市の7回忌を追善供養するため、淀殿が絵師に描かせたものといわれている。
しかし、当時は写真などがなかったので、淀殿に似せて描いた可能性がある。あるいは、淀殿が依頼主なので、いろいろと絵に注文を付けた可能性もあろう。
淀殿は、秀吉の側室となって4年後、疱瘡に罹った。疱瘡とは天然痘のことで、仮に治ったとしても、顔に後遺症として痘痕(あばた)が残りやすかったという。今となっては知る由もないが、淀殿は死に至らなかったとはいえ、顔に痘痕が残ったかもしれない。
ところで、なぜ豊臣秀吉が淀殿を側室に迎えたのだろうか。よくいわれているのが、お市の方が夫の浅井長政を亡くしたあと、秀吉が側室にしたがっていたという説である。
しかし、この説には、明確な根拠があるわけではない。関連して、秀吉はお市の方を妻にできなかったので、その美しい容貌を受け継いだ淀殿を代わりに側室に迎えたといわれている。残念ながら、こちらも根拠が薄弱であり、秀吉が淀殿を側室にした理由はよくわからない。
かつて、淀殿は「淀君」と称されたが、「君」は遊君(遊女)に通じる賤称である。淀殿は性的にも奔放な女性であるといわれ、石田三成、名古屋山三、大野治長との関係を噂された。
そうした話は同時代史料でもせいぜい噂レベルであり、後世に成った史料に至っては、根拠のない悪意といわざるを得ない。今ではそうした話もおおむね否定されているので、「淀君」ではなく淀殿と称されている。