【戦国こぼれ話】織田信長が朱印に刻んだ「天下布武」には、どのような意味が込められているのか
岐阜県の織田信長にちなんだ高級柿「天下富舞」の初競りで、2玉86万円で競り落とされた。過去最高だ。ところで、信長が用いた「天下布武」には、どのような意味が込められていたのか。
■「天下」の意味とは
日本で「天下」という言葉は、五世紀頃から確認できる。
稲荷山古墳(埼玉県行田市)から出土した金錯銘鉄剣、江田船山古墳(熊本県和水町)から出土した銀錯銘大刀にも「治天下」の語を見ることができるので、この頃までに「天下」という概念が日本に伝わったと推測される。
「天下」とは、古代中国で誕生した世界観を表現する言葉で、天命を受けた天子が「天の下」を支配するという考え方のことだ。
「天下」とは至上の人格神「天」が統治する全世界のことで、天子となった有徳の為政者が天命を受け、「天」に代わって支配する世界をも示した。その世界を「王土」という。
有徳の為政者つまり「徳行の優れた政治家」という点が重要であるが、撫民仁政を忘れた不徳の天子が登場し、悪政を行った場合はどうなるのだろうか。
そのときは天命が革(あらた)まり新たな天子があらわれ、再び天下的な世界が編成される。これを「易姓革命論」といい、悪い政治を行った為政者は、放逐されても仕方がないと考えられていた。
■日本での意味
日本では中世以降、少しずつ「天下」の意味は変化を遂げた。古代では朝廷が日本を支配していたが、中世に武士が台頭して幕府を開くと、政権を担うイデオロギーが必要になった。その際、「天下」あるいは「天道」という考え方は、朝廷を相対化するうえで有効な思想となった。
鎌倉幕府から室町幕府に政権が交代すると、「天下」という考え方は政権交代を正当化する理念となった(「易姓革命論」)。
戦国時代以降になると、「天下」は「日本全国」、全国支配の拠点である「京都」、さらに信長・秀吉・家康といった権力者(天下人)を示す言葉になった。
つまり、「天下」は「日本全国」だけでなく、「京都」を意味したということである。近年の研究で、信長がいう「天下」とは、「日本全国」ではないと指摘されている。
■天下の認識
近年の研究で、「天下」とは将軍が支配する「畿内」を示し、それが当時の共通認識であり、「天下」の意味は次の4つに集約できるという。
①地理的空間においては京都を中核とする世界。
②足利義昭や織田信長など特定の個人を離れた存在。
③大名の管轄する「国」とは区別される将軍の管轄領域を指す場合。
④広く注目を集め「輿論」を形成する公的な場。
当時、「天下」が「日本全国」を意味する例は少なかった。それには理由があった。信長は「天下布武」と刻印された朱印を用い、文書を発給していた。
しかし、この「天下布武」が従来の「全国統一」を意味するならば、受け取った大名は宣戦布告と受け取らざるを得ない。
わざわざ信長がこのような朱印状を送り付け、敵を作るようなことをしたとは、とうてい考えられないと指摘されている。
■信長と天下
永禄11年(1568)、信長は義昭を推戴して上洛し、畿内平定戦を展開した。結果、畿内に平和と秩序が戻り、「天下」が安泰になった。
つまり、信長は「畿内」を平定することを一義とし、それを阻む勢力とは徹底抗戦で退けようとしたのは疑いない。
天正元年(1573)、信長は将軍・足利義昭と袂を分かつと、義昭は各地の大名に支援を求め、「信長包囲網」を形成した。
このとき義昭は、上洛と室町幕府の再興を目論んだ。上洛と幕府の再興は、義昭にとっての「天下」を意味しよう。
しかし、義昭が上洛して畿内を制圧すると、「天下(=畿内)」は再び乱れる。そこで、天正8年(1580)から信長は「天下一統」という言葉を用いた。
それは、義昭に与する諸大名を討伐して「信長包囲網」を崩壊させ、同時に義昭の上洛を阻止し、「天下(=畿内)」の静謐を図ることを意味する。
■まとめ
信長は必ずしも「全国統一」という意味での「天下統一」を目論んでいなかった。逆に、幕府や朝廷を温存し、京都を中心とした畿内に平和をもたらそうと努力したのではないか。
そうなると、我々が抱いている信長=全国統一という考え方は、改められなくてはならない。