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1500安打を達成したミスタートリプルスリー、山田哲人の2000安打への険しい道

阿佐智ベースボールジャーナリスト
(写真:CTK Photo/アフロ)

 交流戦が開幕した5月28日、ヤクルトの山田哲人が1500安打を達成した。NPB史上136人目、31歳10か月での達成は、若松勉を抜いて球団史上最速だという。年齢を考えれば、名球会入りの基準となる2000安打まで500安打。レギュラーで出場すれば4年もあれば十分な数字で、クリアできるだろうと多くの人が思うだろう。しかし実は、この年齢での1500本安打達成は、ある意味2000安打への「ノルマ」でもある。

31歳以下での1500安打達成から2000安打に辿り着く確率は半々

 過去山田より若く1500安打をクリアした選手は23人いる。いずれも達成当時は脂が乗り切り、2000安打は間違いないだろうと思われていた猛者たちである。しかし、そのうち2000という数字まで実際に辿り着いたのは、約半数の12人である。昭和の昔とは違い、143試合制の現在の方が、試合数が多く、さらにトレーニングや栄養学の発達により選手寿命も延びているので、今の選手の方が30代以降も記録を積み重ねやすいと思われがちだが、そうでもなく、31歳より若く1500安打を達成し、そのまま2000安打のテープを切った選手のほとんどは1960年代から70年代にピークを迎えていた選手である。

 史上最年少で1500安打を達成したのは、「安打製造機」と称された榎本喜八だ。早稲田実業から毎日オリオンズに入団し、高卒1年目からクリンナップを任された早熟打者は、プロ10年目の1964年のシーズン終盤に27歳9か月でこの数字をクリアしている。そして、1500安打達成の4年後の1968年には現在の山田より若い31歳7か月で2000安打を達成している。この数字も無論史上最年少記録だ。しかし、シーズン100安打以上を放ったのはこの翌年までで、34歳になった1971年にレギュラーの地位を剝奪されると、このシーズンオフに西鉄ライオンズにトレードされ、1972年の38安打を最後に通算2314安打の記録を残し35歳でバットを置いている。

 NPB史上最多の3085安打を放った張本勲は、1969年、歴代4位の29歳2か月で1500安打に達している。東映フライヤーズに高卒で入団して11年目のことだった。その勢いで3年後の1972年、32歳2か月で2000安打に到達。1976年に巨人に移籍後もレギュラーを張り続け、100安打以上は38歳になった1978年シーズンまで続けている。彼は1981年、ロッテで35安打を放って41歳でバットを置いたが、これくらいのペースで打たないとやはり3000安打という金字塔は打ち立てられないのだろう。

 付け加えると、長嶋茂雄(巨人)、王貞治(巨人)、野村克也(南海など)といったレジェンドたちは皆、山田より若い年齢で1500安打を達成している。高卒の後者2人はともかく、大卒でありながら、31歳6か月という若さでこの数字をクリアするところに長嶋が「ミスタープロ野球」と呼ばれるゆえんがあるのだろう。

 ちなみに昭和のプロ野球で31歳10か月より若い年齢で1500安打を達成し、2000安打までたどり着いたのは、藤田平(阪神)が最後である。1978年に30歳6か月で1500安打を放った藤田は1983年に35歳6か月で2000安打に到達。しかしこれでほっとしたのか、この翌年をもって引退している。

 藤田の後、上記の条件で2000安打を成し遂げる打者が出現したのは、四半世紀後の2003年のことである。高校野球の名門、PL学園から1988年にドラフト1位で中日に入団し、すぐにショートのレギュラーを奪った立浪和義(現中日監督)がプロ16年目、33歳で名球会入りを果たしたが、彼はその3年前に30歳7か月で1500安打をクリアしている。そしてその翌年、立浪の高校時代の先輩である清原和博(当時巨人)が、1998年に30歳9か月で1500安打を放ったのに続いてこの節目の記録に到達したが、この頃、この高校野球のレジェンドは、怪我がちになっており、後輩の立浪が3年で稼ぎ出した500安打を積み重ねるのに倍の6シーズンを費やしている。

PL学園高校から中日に入団し、いきなりショートのレギュラーとして優勝に貢献した立浪現中日監督
PL学園高校から中日に入団し、いきなりショートのレギュラーとして優勝に貢献した立浪現中日監督写真:岡沢克郎/アフロ

 その後もこの条件での2000安打達成者が2000年の坂本勇人(巨人)しか出ていないのは、平成に入ってからシーズンの試合数は増えたものの、NPBのレベルが上ったこの時代以降、高卒ルーキーが、プロ入りしていきなりレギュラーポジションを確保することが難しくなったことがその要因として挙げられるだろう。

確実視されながら2000安打を果たせなかった好打者たち

 山田より早い年齢で1500安打を達成しながら2000安打に届かなかった打者の内、最も2000安打に迫ったのは、1966年に30歳3か月で到達した毒島章一(東映)だ。現在の感覚なら2000安打は「楽勝」と思われる年齢での1500安打達成だったが、彼はこの5年後に1977安打の記録を残して引退している。 

小玉明利(近鉄など)も若くして1500安打を達成しながら1900台で現役を終えた打者のひとりだ。1964年に29歳1ヶ月で1500安打を放ちながらも1969年シーズン限りで引退している。通算記録は1963安打というから現在ならば、もう1シーズンプレーしているだろう。しかし、名球会が発足したのは1978年のこと。それ以前に引退した選手にとって2000という数字は節目ではあっても、さほど大きな意味をもたなかったのかもしれない。

 ただ、彼らと同世代の豊田泰光(西鉄など)は少々事情が違う。立浪と同じく高卒でいきなりショートのポジションを獲り、西鉄ライオンズ黄金時代を支えた彼だったが、29歳5か月で1500安打に達した時は、国鉄スワローズのユニフォームを着ていた。この時移籍2年目の彼は、弱小チームにあってまだまだ主力として活躍するものと思われたが、肘の故障などもあって、規定打席に達したのは1500安打を放ったこの1964年が最後で、この後、シーズン100安打に到達することもなく1969年に1699安打の記録を残して引退した。

 豊田の例を見るまでもなく、外野手に比べ、内野手は守備の負担が大きい。要のショートはなおさらである。だから、内野手が30代になって急速に衰えを見せることはままある。

 1985年の優勝フィーバーの主役だった「ミスタータイガース」・掛布雅之はその典型だろう。優勝の翌1986年に31歳3か月で1500安打を放つも、このシーズンは開幕直後に死球を受け長期離脱を強いられ、成績を大きく落とした。その後も、彼の打棒は復活することなく、好敵手だった江川卓(巨人)が引退した翌1988年に通算1656安打を残して引退してしまった。

 強打の内野手が衰えを見せた時、コンバートによって選手生命を延ばすことはままある。先述の立浪もショートを守っていた期間は長くはなく、セカンド、サード、そして外野へとコンバートを繰り返している。坂本もショートで2000安打を達成したものの、次の3000という目標を前にサードにコンバートされている。その意味では、内野手の場合、30代に入り、若手への切り替えを図ろうとするチーム方針との折り合いをつけ、コンバートに成功することが記録を伸ばす秘訣とも言える。これに失敗して、確実視されていた2000安打を逃したのが高橋慶彦(元広島など)と松永浩美(元阪急など)だ。

 1970年代後半から80年代前半のカープ黄金時代を支えたスピードスター、高橋が1500安打に到達したのは、1988年開幕直後のことだ。このとき彼は31歳1か月。誰もが名球会入りを疑わなかっただろう。しかし、前年の開幕前に、フロントと衝突し、謹慎処分を食らうなど、なにかと「扱いにくさ」を抱えていた彼が衰えを見せると、球団の対応は早かった。このシーズン、打率.238と不審に陥った高橋は、翌シーズンは.267とショートとしては及第点の成績を残したが、守備力の高い野村謙二郎を後釜にすることに決めた球団は、まだレギュラーを張っていた高橋をロッテに放出する。

「異端児」の印象が強い高橋だが、引退後、ダイエー、ロッテ、オリックスで指導者を務めた。
「異端児」の印象が強い高橋だが、引退後、ダイエー、ロッテ、オリックスで指導者を務めた。写真:YUTAKA/アフロスポーツ

 ロッテでは外野手として期待されたが、思うような成績を残すことができず、おまけに当時の金田監督とも折り合いが悪くなり、1年で阪神に移籍。しかし、往年の打棒は戻ることなく、35歳で引退している。通算安打数は1826。広島退団後の3シーズンの安打数は85でしかない。当時の130というレギュラーシーズンの試合数を考えても、広島でコンバートをしてでも常時出場していれば、2000安打はクリアしていただろう。

 松永もまた、誰に対しても歯に衣着せぬ物言いをする無頼漢で、これがあだになった。彼もまた高校を中退して入ったプロでは初めショートとして鍛え上げられたが、レギュラー獲得後は不動のサードとして名門・阪急ブレーブスのチームリーダーとして君臨していた。

 彼が1500安打を達成したのは、球団名がオリックスに変わっていた1992年のことだ。達成時31歳10か月でこのシーズン打率.298を残した彼がこの先2000安打を達成しないとは誰も思わなかっただろう。しかし、この時チームを指揮していた土井監督との関係悪化が、彼の運命を狂わせた。このシーズン後、松永は同じ在阪球団の阪神にトレードされてしまう。ただし、このトレードは「放出された」というより、阪神から三顧の礼をもって迎えられたというべきもので、松永には当然のごとくサードのポジションが用意されていた。

 しかし、彼の阪神でのプレーは1993年限りで終わってしまった。自身、怪我がちで阪急・オリックスで11シーズン続けてきた規定打席数の到達も途切れてしまい、このシーズンは89安打に終わってしまった。それでもこの数字は出場80試合でのものだったから、彼の打棒には衰えはなかったのだが、松永は、このオフ、FA宣言をして生まれ故郷の福岡の球団、ダイエーホークスに移籍してしまったのだ。ホームグラウンドのフィールドの状態を説明した言葉が、「甲子園は幼稚園の砂場」などと曲解されて報じられるなど、無頼漢の松永にとって、人気球団の居心地は良くはなかったようだった。

 パ・リーグの水はやはり松永にはあったのか、ダイエーに移籍した1994年は、150安打を放ち、3年ぶりの3割をマークした。シーズン後、年俸2億円を突破した契約更改後の記者会見で満面の笑みを浮かべていた松永はこの時点で34歳、通算1780安打を放っていた。名球会入りはほぼ確定と誰もが思ったが、この後の3シーズンで124安打しか積み上げることができず、ダイエーを自ら退団してしまう。

 翌年春、アスレチックスのキャンプに招待選手として参加したくらいだから体はまだまだ動いたはずなのだが、メジャー挑戦が叶わなかった後、日本の球団で彼を迎え入れようとするチームはなかった。2000安打にこだわって方々を回ればプレーできたのかもしれないが、彼はそれを潔しとせず、通算1902安打でバットを置いた。

 高橋や松永とは違う外野手ではあるが、近鉄バファローズ最後の2001年のリーグ制覇時の核弾頭、大村直之も「無頼派」の系譜に位置するだろう。

 「球界再編騒動」の後、近鉄とオリックスの合併が決まった2004年シーズン後、FA権を行使した大村は、移籍先のソフトバンクでも主力打者として活躍。2006年に30歳6か月で1500安打に到達する。当時はもうレギュラーシーズンの試合数は140試合を超えていたので、トップバッターを務めることが多い彼が残り500安打を積み上げることはたやすいことのように思えた。実際翌年も首位打者争いを演じ、リーグ最多安打を記録した前年には達成できなかった打率3割超えを果たし、さらに145安打を追加している。

 しかし、32歳の2008年シーズンは故障がちで、有望な若手が次々と入団してくるチームにあって出番を減らし、74安打に終わってしまう。それでもここまで通算1743安打。年齢を考えても2000安打達成は問題ないものに思えた。このシーズン終了後、層の厚いソフトバンクからオリックスにトレードに出されたことも、彼にとっては追い風になったように見えた。実際、トレード初年度の2009年には、2年ぶりに規定打席に到達し、打率.291と復活を果たし、さらに122安打を上積みしている。

 残り135安打。前年レギュラーポジンションを獲得していた34歳の大村にとって2010年シーズン中の大台達成は十分に可能だと思えた。しかし、この年に就任した岡田監督(現阪神)は大村を起用しようとはしなかった。このシーズン、大村は1安打も放つことなく、自由契約を言い渡されてしまう。合同トライアウトを受験することを潔しとしなかった大村に他球団からのオファーもなく、彼もまた確実されていた2000安打に届くことなく球界から去ることになった。彼が最後に所属した「バファローズ」が近鉄のままなら、彼はFA移籍などすることはなかっただろうし、2000安打も達成していたに違いない。現役最終年の干され方といい、引退後、指導者にもなっていないことから推測するに、彼もまた器用な生き方をする方ではなかったのだろう。

 こうして見てみると、1500安打を30歳過ぎで達成するには高卒でプロの世界に入り、早い段階でポジションを獲得することが必要であることがわかる。しかし、その一方で20歳そこそこでプロの第一線で活躍すると、30歳を過ぎてから疲労の蓄積によって一挙に衰えが来るのも早熟選手の特徴であるとも言える。

 山田の足跡を見てみると、公式戦デビューは高卒2年目ながら、1年目のクライマックスシリーズで元々のポジションであったショートでスタメンデビューしている。通算安打を積み上げ始めたのは2年目からで、初めて規定打席をクリアした4年目に右打者のシーズン最多安打記録(191)を達成し、その翌年からは2年連続で「トリプルスリー」(打率3割、30本塁打、30盗塁以上)を成し遂げ、26歳の2018年シーズンにもこの偉業を成し遂げている。しかし、3割をマークしたのはこの年が最後で、ここ数年は彼のポテンシャルを考えると物足りない成績が続いている。

 ここで上げた歴代の選手たちは、少なくとも1500安打達成時は、まさに全盛時真っ只中で衰えなど微塵も感じさせなかった。ここ数年、精彩の欠く山田があと500安打を積み上げるのは決して簡単なことではないようだ。

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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