【江戸城】じつは世界最強クラスの巨大城塞だった!徳川家に逆らう野望を粉砕するけた違いの防御力とは?
ときは1603年、徳川家康は江戸幕府を開きました。
その後に豊臣家との決着を経て、約260年にもおよぶ太平の世を築いたのです。
この長さは、どれほどすごいことか、ひとつ分かりやすい例を出しましょう。
いま私たちの生きる2023年は、江戸時代が終わってから約150年。
つまりこの現代は、今から100年経ってもまだ、江戸時代の長さには及ばないのです。
これほどの、とてつもない治世を誇った江戸幕府。その要因は家康の遺産をはじめ、各年代の優れた人物達、あるいは純粋に徳川家を敬った人の多さもあるでしょう。
しかし何と言っても、モノを言わせたのはその圧倒的な武力です。とても他の大名が戦いを挑んで、勝ち目のある相手ではありません。その威厳の本拠となった場所こそが、江戸城。
かつて存在した天守閣は、現代のビル20階にも相当する空前のスケールであり、圧倒的な威容を誇っていたと言います。
歴史上で直接の攻防戦はないため、あまりイメージされることは少ないですが、日本のみならず、当時の世界レベルで見ても、最強クラスの超巨大城塞でした。
その難攻不落さは、「いつか攻めてやろう!」という野望さえ微塵も起こせない、まさに鉄壁と言っても過言ではないでしょう。
そこでこの記事では、江戸城のとてつもなさは、どのような部分にあったのか?大きく3つの部分にフォーカスし、分かりやすくお伝えしたいと思います。
難攻不落その①:圧倒的面積と長大な外濠
まずはシンプルな部分ではありますが、攻城戦においては極めて重要な、全体の大きさについてです。
江戸城と言えば皇居を思い浮かべる方が多いと思いますが、これは城の“内郭”と言える部分。
もし戦時に突入した場合は、皇居一帯のはるか外側も江戸城と見なされる、2段構えの城塞都市こそが、江戸の町でした。
その“外郭”は、渦巻き状の長大な外濠が守ります。今でいう神田駅を起点に、虎ノ門を経て飯田橋などJR総武線と並行し、隅田川へと達する、とてつもない長さの外濠。
その長さは大阪城と比べても2倍近くに達し、これらが内包する城下町全体が防御施設となる、通称“総構え”と呼ばれる仕組みです。
そして守護する軍勢は徳川軍本体を始め、全国からも味方の武将が馳せ参じるでしょうから、前提として大軍。
そのうえ、ただでさえ日本一の面積を誇る江戸城を攻めるには、囲むだけでもどれほどの人数と労力が必要となるか、はかり知れません。
ちなみに戦国時代には同じ“総構え”の小田原城や大阪城がありますが、城兵をはるかに上回る人数で攻めても、正面からでは落とせませんでした。
江戸城は、この2城をもはるか上回る規模であり、しかも内部は以下でも述べる、幾重もの防御施設が立ちはだかりますから、攻め手の立場になれば気が遠くなりそうです。
難攻不落その②:鉄壁の“江戸城三十六見附(さんじゅうろくみつけ)”
東京の中心地にお住いの方であれば“赤坂見附”という駅の名を、耳にしたことがあると思います。この見附(みつけ)とは、江戸城において“橋を渡った先にある城門”を指す言葉でした。
これらはただの城門ではなく、数々の防御施設と一体となって、攻め手に立ちはだかりました。
具体的には曲輪(“真田丸”で有名な防御構造。堀や城壁と連携した独自区画で、極めて攻めにくい)や、そこを突破しても桝形(“ますがた”攻め手が無防備に、矢や砲撃を受ける構造エリア)が一体となり、下手をすれば攻めきれないどころか、甚大な被害を出して返り討ちです。
しかも、これらの形や大きさは各所によってまちまち。もちろん、攻め手がパニックになるような心理を突いて、設置されていたのでした。
なお36とは言っていますが、これは当時に流行った数字を当てはめた呼称(たとえば“四天王”など)。実際はそれより、はるかに多かったとも伝わっています。
全体的に分かりやすく言うと、堀を突破して侵入しても、複雑怪奇でワナだらけの構造が、連続で待ち受けているという事です。
それらが広域に多数となれば、攻め手の司令官からすれば、それらの対策に気を使うだけでも、一苦労。
「ここはこう攻めて、こっちは〇〇の警戒が必要で・・」など、考えるだけでも頭がこんがらがってしまいそうなレベルです。
難攻不落その③:戦国の英知を結集した“天下普請”
もともと江戸城は、地方の一小城を徳川家の財力で、強力に改築させたものでした。
しかし天下統一が達成されると、日本中の大名にさらなる増強を命じ、その規模はけた違いとなります。
通称“天下普請(てんかぶしん)”と呼ばれるこの事業ですが、ただの拡大工事ではありません。
熊本城で有名な加藤清正や、藤堂高虎といった築城の名手らに知恵を絞らせたほか、武田家や北条家など、最終的に敗北はしたものの、威力を発揮した相手の仕組みも取り入れています。
まさに戦国時代の総結集とも言える技術が、これでもかと詰め込まれているのです。
たとえば最深部などは“連立式天守“と言い、本拠である大天守閣の周囲を、小天守と呼ばれる拠点群が守護しています。
これは姫路城にも採用されている仕組みで、本拠の“核”攻略に集中すると、小天守から背後を突かれ、その逆も然り。最後の最後まで、十重二十重の防衛ラインが立ちはだかるのです。
また、これは間接的ではありますが、江戸時代に入ると一国一城令などで、全国の大名が保持する城は激減して、大幅に弱体化させられています。
もはや「ここまでするのか!」という徹底ぶりで、江戸城は相対的にも群を抜いた、最強の城として君臨していたのでした。
徳川幕府260年の重み
少し前まで放送され、国民的な人気を誇った時代劇「水戸黄門」では、徳川の家紋を見せただけで、悪党が平伏する“印籠”が痛快でした。
これは最高権力者の証という事もあるでしょうが、とても歯向かえない雲の上の存在という意識は、本当に存在していたのではないかと、想像できます。
幕末に江戸城は、偉人たちの英断によって無血開城されましたが、もし徹底抗戦を貫かれていたら、新政府軍はただでは済まなかったことでしょう。
明治維新の後、主力兵器の銃や大砲が発達しても、西郷隆盛は熊本城を落とすことが出来ませんでしたから、戦国時代に築かれた城の遺産は、この時期にも通用したということです。
もし徳川幕府が目先の勝利のみを目指して江戸城と、大阪城なども合わせてガチガチに抵抗すれば、展開によっては逆転勝利もあり得たほどのチカラを、秘めていたと言えるでしょう。
しかし、それではどちらが勝利しても、日本中がボロボロになり果てましたから、当時の幕臣や維新の志士が知恵を絞り、江戸の総力戦を回避した事実が、いかに重要かが分かります。
江戸に幕府が開かれて以来、はるか400年の時を超え、今なお“東京”として日本の中心地であり続けている事実。
それを思うとき、いかに徳川家康が偉大な人物であったか、そのことに思いを馳せずにはいられません。