本当に森乱丸は織田信長に寵愛され、禁断の関係にあったのだろうか
大河ドラマ「どうする家康」では、ようやく森乱丸が登場した。乱丸が織田信長に寵愛された話は有名であるが、本当に禁断の関係になったのか考えてみよう。
永禄8年(1565)、森乱丸は可成の三男として誕生した。軍記物語などには「蘭丸」と記されており、長らく踏襲されてきたが、実際は「乱」、「乱法師」と表記されているので、「乱丸」とされている(なお、「乱丸」と書かれた史料はない)。
『寛政重修諸家譜』によると、実名は「長定」と書かれているが、実際は「成利」が正しいと指摘されている。乱丸の記録は、天正7年(1579)から3年分しかないので、その生涯は実に不明な点が多いのである。
天正5年(1577)、乱丸は織田信長の小姓として登用された。その後の乱丸は、信長の使者のような役割を果たしていたので、単なる身辺の世話役としての小姓ではなかったといえよう。
天正10年(1582)6月の本能寺の変で、信長は光秀によって自害に追い込まれた。そのとき、乱丸は弟の坊丸、力丸とともに本能寺に居合わせたので、信長とともに運命をともにしたのである。
乱丸は信長から寵愛され、小姓として近侍し、禁断の関係にあったかのように語られてきた。しかし、『信長公記』をはじめ、後世に成って成立した二次史料にも、そういう事実は書かれていない。つまり、疑わしいということになろう。
江戸時代後期に成立した『真書太閤記』には、乱丸について「生年十八歳、色白くて長高し」と書かれているので、この記述がもととなって、美少年というイメージが定着した可能性がある。それでもって、信長との関係が作り上げられたのではないか。
信長は男色を好み、前田利家と関係があったと言われているが、こちらも事実無根であって、根拠となる史料はない。当時、男色があったのは事実であるが、少なくとも信長については、確かな記録により裏付けられないのである。
主要参考文献
谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版)』(吉川弘文館、2010年)