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凄絶なものから涙を誘うものまで… 無念にも潔く散った平家の武将5選

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
平清盛は武家政権を樹立したが、無念にも病で亡くなった。(提供:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 今年のNHK大河ドラマは「鎌倉殿の13人」。とても楽しみである。ところで、源平の争乱期には、平家の武将たちが無念にも敗北して散った。特に、有名な逸話のある武将を取り上げることにしよう。

■平忠度(1144~84)

 平忠度(ただのり)は、歌人としても知られている。寿永2年(1183)に平家が都落ちする際、歌人として名高い藤原俊成に自身の和歌を託したエピソードが有名である。

 源平争乱期には大将軍の一人として各地を転戦したが、元暦元年(1184)の一の谷の戦いで、岡部忠澄に組み打ちの末に討たれた。

 その際、忠度は「行きくれて 木の下かげを 宿とせば 花やこよひの 主ならまし」の一首を箙(えびら)に結びつけていたと伝わっている。

 なお、「ただのり」という読みから、忠度の官名「薩摩守」は無賃乗車を意味するようになった。

■平敦盛(?~1184)

 平敦盛は官職を授けられなかったので、「無官大夫」と称された。元暦元年(1184)の一の谷の戦いで、敗れた平家は逃亡したが、敦盛は逃げ遅れてしまった。

 結局、敦盛は武蔵の武将・熊谷直実に取り押さえられ、討たれたのである。敦盛は笛の名手として知られ、このとき鳥羽天皇から祖父の忠盛に下賜された名笛「小枝」を所持していた。

 直実はせっかく敦盛を討ったものの、人生の無常を感じて出家したという。一連の話は、『平家物語』のほか、幸若舞曲『敦盛』、謡曲『敦盛』、浄瑠璃『一谷嫩軍記』で世に広まった。

■平教盛(1128~1185)

 平教盛は平家の長老格で、源平争乱時には源行家の軍勢を打ち破るなどの軍功を挙げた。しかし、元暦元年(1184)の一の谷の戦いで、子の通盛、業盛を戦いで失った。

 文治元年(1185)の壇ノ浦の戦いで、平家は敗北。教盛は兄の経盛とともに体に碇を巻き付け、海に飛び込んだといわれている。

■平教経(1160?~85?)

 平教経は、平家一門のなかでも剛の者として知られていた。源平争乱時には、元暦元年(1184)の一の谷、屋島の戦いなどで大いに軍功を挙げ、源氏の軍勢を苦しませた。

 一の谷の戦いで、教経は討たれて首が獄門に晒されたと噂されたが、それは疑わしい。文治元年(1185)の壇ノ浦の戦いで、教経は源義経を討つべく、敵の船を探し回った。

 しかし、すでに義経は戦場から逃れていたので本懐を遂げられず、小脇に三十人力で知られた敵の安芸兄弟を抱えて海に飛び込んだという。

■平知盛(1152~85)

 平知盛もまた、平家一門として源平争乱で活躍した。しかし、一の谷、屋島の戦いで源氏の軍勢に敗れ、ついに文治元年(1185)の壇ノ浦の戦いで源氏と雌雄を決することになった。

 ところが、奮闘虚しく、平家は敗北。知盛は安徳天皇、平家一門の女性とともに入水した。その際、知盛は「見るべきほどのものは見つ。いまは自害せん」と言い放ったという。

〔番外編〕平宗盛(1147~85)・清宗(1170~85)父子

 平宗盛と子の清宗は、その最期があまりに情けなかった。文治元年(1185)の壇ノ浦の戦いで平家が敗北すると、宗盛・清宗父子も海に飛び込んだ。

 しかし、2人は死にきれず、海から引き揚げられたのである。

 2人は鎌倉に連行されたが、宗盛は平家の総大将だったにもかかわらず助命を乞うたので、集まった武士から嘲笑されたという。結局、2人は近江国篠原宿と同野路口で処刑された。

■まとめ

 平家一門の人々の最期は、凄絶なものから涙を誘うものまで、さまざまだった。多少の脚色があるかもしれないが、長く人々の間に語り継がれたのだ。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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