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「痛みを感じない」遺伝子とは

石田雅彦科学ジャーナリスト
(写真:アフロ)

 我々は痛みや痒みを感じることがあるが、これらの感覚はまだはっきりそのメカニズムがわかっていない。外界や身体の内部から生体への危険信号ととらえることができるが、過度の苦痛、慢性化した苦痛はQOLに悪影響を与えて患者の負担を増大させる。

 痛みがストレスとなるなどし、不眠やうつ病などを引き起こすことにつながりかねない。必要以上の痛みを抑えることができれば、患者の治療にも効果があるだろうし、見守る家族の心理的負担も軽減されるはずだ。また、痛みには肉体的なもの、精神心理的なもの、社会的なものがあるが、ここでは肉体的な苦痛について述べる。

無痛症という遺伝的特質

 さて、その奇妙な患者が報告されたのは1932年のことだった。チェコからの移民の息子で54歳の米国市民だ。彼は7歳の頃に右腕に大ケガを負ったが、痛みをまったく感じなかったという(※1)。

 最初は単に鈍感なだけかと思われたが、やがてそれは家族性の「無痛」遺伝子による症状ではないかという研究が出された(※2)。遺伝的に異なる家系ということがわかっている3人の子どもで同じような症状が確認され、解剖などで神経に外見的な異常はみられないため、末梢神経の神経繊維に何らかの遺伝子異常が起きているのではないかと考えられるようになる。

 遺伝的に痛みを感じない人たちは、幼児期に傷などを負って初めて判明することが多く、痛み以外の感覚や反応は正常なことがほとんどだ。もっとも切り傷や生傷が目立ち、骨折した経験のある人も少なくない。医薬が進歩していなかった時代は、その多くが成人するまでの間に死んでいただろう。

 無痛症はパキスタン北部の近親者同士の婚姻が多い家系で確認されている。この家系3家族の遺伝子を調べたところ、2番染色体の長いほうの対立遺伝子に変異(ホモ接合)が見つかったという(※3)。この変異はパキスタン北部のほかの家系300人からは見つかっておらず、この遺伝子変異が原因と考えられた。

 ところで、末梢神経のシュワン細胞(Schwann Cell)や末梢から神経伝達を中継する後根神経節(dorsal root ganglion)などで発現するSCN9Aという遺伝子(※4)があるが、これも2番染色体上にある。その後の研究で西ヨーロッパと南北アメリカ大陸の9家族、カナダの大家族から同じSCN9A遺伝子の変異が発見され、このSCN9A遺伝子に無痛症の原因があるのではないかと考えられるようになった。

 また、神経伝達の方法の一つにナトリウムチャネル(sodium channel)という機能があるが、これはイオンを透過して情報伝達する仕組みだ。SCN9A遺伝子はナトリウムチャネルNav1.7として、シュワン細胞や後根神経節などで発現する。

 ちなみに、このナトリウムチャネルは、魚介類のイカの神経軸索の研究によって発見された。また、フグ毒として有名なテトロドトキシンはこのチャネルに結合してナトリウムイオンの透過を阻害し、生物を死に至らしめる。中国で皮膚のリンパ腫にかかった患者の遺伝子を調べた研究など(※5)により、SCN9A遺伝子の変異がナトリウムチャネルを介した痛みと関係があることがわかった。

イタリアの特殊な無痛症

 最近の研究では、無痛症などの感覚障害には、また別の遺伝子変異が多く関わっていることもわかってきている(※6)。さらに、英国のロンドン大学の研究者がこの症状のあるイタリアの家系を調べたところ、ZFHX2(zinc finger homeobox 2)という遺伝子の変異が関係することがわかったという(※7)。

 この家系は「マーシリ(Marsili)ファミリー」と呼ばれ、イタリアのシエナ大学のレチッツァ・マーシリ(Letizia Marsili)教授の母親と姉妹、そして子どもの合計6人だけに遺伝している無痛の症状らしい。彼らは高温による熱さを感じず、骨折しても痛みを感じず、また唐辛子(カプサイシン)への感度が低い。

 14番染色体上にあるZFHX2遺伝子は真核生物に共通のもので、線虫やショウジョウバエなどの実験生物から我々ヒトにいたるまで持っている遺伝子だ(※8)。前述したSCN9A遺伝子との違いは末梢神経障害と無関係ということだが、神経伝達を中継する役割を持つ後根神経節への遺伝子発現には関係している。つまり、途中で神経伝達が途切れてしまい、それを痛覚できない。

 このマーシリ・ファミリーについての研究はまだ実験動物との比較や臨床試験の段階で、ヒトのZFHX2遺伝子についての解析はこれからのようだが、無痛症についてこれから詳しいことがわかれば、副作用の少ない新たな鎮痛剤の開発などにつながるだろう。

※1:George van Ness Dearborn, "A Case of Congenital General Pure Analgesia." The Journal of Nervous and Mental Disease, Vol.75, Issue6, 612-615, 1932

※2:P J. Dyck, et al., "Not'indifference to pain' but varieties of hereditary sensory and autonomic neuropathy." Brain: a Journal of Neurology, Vol.106(Pt2): 373-390, 1983

※3:James J. Cox, et al., "An SCN9A channelopathy causes congenital inability to experience pain." nature, Vol.444, 894-898, 2006

※4:M C. Beckers, et al., "A new sodium channel alpha-subunit gene (Scn9a) from Schwann cells maps to the Scn1a, Scn2a, Scn3a cluster of mouse chromosome 2." Genomics, Vol.36(1):202-205、1996

※5-1:Y Yang, et al., "Mutations in SCN9A, encoding a sodium channel alpha subunit, in patients with primary erythermalgia." BMJ, Vol.41, No.3, 2004

※5-2:Theodore R. Cummins, et al., "Electrophysiological Properties of Mutant Nav1.7 Sodium Channels in a Painful Inherited Neuropathy." JNeurosci, Vol.24, Issue38, 2004

※6:Annelies Rotthier, et al., "Mechanisms of disease in hereditary sensory and autonomic neuropathies." nature NEUROLOGY, Vol8, 73-85, 2012

※7:Abdella M. Habib, et al., "A novel human pain insensitivity disorder caused by a point mutation in ZFHX2." Brain: a Journal of Neurology, doi:10.1093/brain/awx326, 2017

※8:Arun Seetharam, et al., "A survey of well conserved families of C2H2 zinc-finger genes in Daphnia." BMC Genomics, Vol.11, 276, 2010

科学ジャーナリスト

いしだまさひこ:北海道出身。法政大学経済学部卒業、横浜市立大学大学院医学研究科修士課程修了、医科学修士。近代映画社から独立後、醍醐味エンタープライズ(出版企画制作)設立。紙媒体の商業誌編集長などを経験。日本医学ジャーナリスト協会会員。水中遺物探索学会主宰。サイエンス系の単著に『恐竜大接近』(監修:小畠郁生)『遺伝子・ゲノム最前線』(監修:和田昭允)『ロボット・テクノロジーよ、日本を救え』など、人文系単著に『季節の実用語』『沈船「お宝」伝説』『おんな城主 井伊直虎』など、出版プロデュースに『料理の鉄人』『お化け屋敷で科学する!』『新型タバコの本当のリスク』(著者:田淵貴大)などがある。

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