【大河ドラマ鎌倉殿の13人】北条義時がすぐに処刑したいほど憎い男を助命した納得の理由
源行光は、清和源氏を流れを汲む家に生まれ、鎌倉幕府に仕えていましたが、承久の乱(1221年6月)においては、官軍(後鳥羽上皇方)に属しました。官軍は敗北しましたので、行光も捕縛されました。
行光は、清久五郎行盛が関東に連行することになり、一行は、金洗澤(鎌倉の七里ガ浜辺り)に到着します(1221年8月2日)。五郎行盛は息子の太郎を、幕府執権・北条義時のもとに遣わします。「源行光をどう致しましょう」と、義時に尋ねるためです。
すると、義時は「誅戮」(殺害)せよと、容赦無く、命じます。その理由は「行光は、幕府から数ヶ所の領地を貰っていながら、院に加勢して、関東の武士の名前を書き出した。更には、義時追討の宣旨(天皇の命令を伝達する文書)に添え書きをした。その罪は重い」というものでした。
行光嫡男の、源親行は、幕府への功績があり、父の助命嘆願をしますが、それでも許されません。「死罪は免じてください」と泣いて、依頼したようですが、受け付けられなかったようです。
そこで、親行は、公卿・一条実雅を頼ります。実雅は、北条義時の娘を妻としているので、実雅ならば、何とかしてくれるかもと思ったようです。実雅は、義時に、行光の助命を願います。すると「行光を殺してはならぬ」という書状が発給されたのです。
親行は、この書状を持って、金洗澤に走り、父の命を救ったのでした。行光の身柄は、五郎行盛から小山朝政に引き渡されます。
かつて行光は、平家方に属した父・光秀の助命を源頼朝に願い、これを許されたことがありました。父から受けた恩義に行光は報いたので、源親行という孝行息子に助けられたのではないかと『吾妻鏡』(鎌倉時代後期の歴史書)は記しています。