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本能寺の変で織田信長とともに運命をともにした3人の武将

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
本能寺本堂。(写真:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」は、本能寺の変の場面だった。変が勃発したとき、織田信長とともに運命をともにした3人の武将を取り上げることにしよう。

1.村井貞勝(?~1582)

 村井貞勝は生年不詳で、その出自も明らかではない。永禄11年(1568)、信長が上洛すると、貞勝も同行した。そして、京都御所の修繕、二条御所の造営、寺社との交渉など、さまざまな政務を担当した。天正元年(1573)に足利義昭が放逐されると、京都所司代として政務を担当した。

 天正10年(1582)6月2日に本能寺の変が勃発したとき、貞勝は向かいの自邸にいた。貞勝は織田信忠が宿泊していた妙覚寺に向かい、信忠とともに二条新御所に移った。やがて、明智軍が二条新御所に攻め込むと、貞勝は応戦したが戦死。信忠や子の貞成、清次も討ち死にしたのである。

2.毛利良勝(?~1582)

 毛利新介は生年不詳で、その出自も明らかではない。信長の親衛隊である馬廻として近侍していたという。永禄3年(1560)の桶狭間の戦いに出陣し、今川義元の首を取った。これにより、良勝の名は天下に轟いたといってもよい。その後、良勝は黒母衣衆に抜擢された。

 天正10年(1582)に信長が上洛した際、良勝も付き従った。同年6月2日に本能寺の変が勃発すると、良勝は信忠の籠る二条新御所に急行し、明智軍と戦った。しかし、しょせんは多勢に無勢ということもあり、良勝は信忠とともに無念にも戦死したのである。

3.森成利(1565~1582)

 成利は可成の三男として、永禄8年(1565)に誕生した。通称は「蘭丸」が知られているが、同時代の史料には「乱」または「乱法師」と書かれている。信長は小姓として、成利と弟(長隆、長氏)を召し抱えた。以後、成利は小姓としてだけでなく、使者として交渉を行うなどし活躍した。

 天正10年(1582)6月2日の本能寺の変の際、一説によると、安田国継(天野源右衛門)が信長に槍を突いたので、成利は信長を救うべく、国継に槍で応戦した。しかし、国継は反撃し、見事に成利を討ち取ったという。成利が討ち死にしたのは事実だが、この話は疑わしいとされている。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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