今も昔も変わらない、遊女による客引きの方法
先日のインターネット記事によると、大阪・梅田界隈では不法な売買春が行われているという。こちら。今回は、室町から江戸時代にかけて、遊女はどのようにして客引きしたのか紹介することにしよう
室町・戦国時代に遊女が客引きを行った記録は、いくつかの史料で確認することができる。風狂の禅僧として知られる一休和尚の『狂雲集』には、遊女が京都の西洞院辺りで客引きを行い、自宅に招き入れた事実を記している。
宿が発達していなかったので、自宅ということになるが、それは掘っ立て小屋のレベルである。
『狂雲集』の文中に「地獄」あるいは「加世」という、当時遊女がたむろしていた辻子の名がみえる。辻子は、商売をするのに最適の地だったと考えられる。
この頃の遊女は男性に声を掛けると、基本的に相手の家を訪ねるのではなく、自宅でことを済ませていたのは先述のとおりである。
そうした客引きの光景は、朝鮮官人・宋希璟の日本紀行記『老松堂日本行録』(15世紀初頭の日本の様子を記録)にも描かれており、事実と見てよいであろう。
なお、自宅に客を招き入れるのは、まだ下級クラスの遊女だった。高級な遊女は異なっており、相手の邸宅を訪問していたという。
遊女が客引きする手順は、『猿源氏草紙』(室町時代の成立。作者未詳)にその方法が描かれている。まず遊女は、それぞれが源氏名を持っていた。
源氏名とは、女性が職業上で用いる別名の一種である。現在でも風俗関係の店に行けば、よほどのことがない限り、本名を名乗っている例はないだろう。したがって、源氏名の起源は、少なくとも室町時代までさかのぼることが可能である。
客が初めて遊女屋に赴くと、のちの「引き付け」(遊里で、初めての客に遊女を会わせること)と同じように、その店の遊女を一覧できるようにした。これを「見立」という。客はこの中から気に入った遊女を見つけると、盃を与えたのである。
当時の作法は、すでに江戸時代に通じるものがあったという。江戸時代になると、吉原などの遊女街が成立し、客引きのルールが整備されるようになった。
江戸幕府は遊郭の開業に際して、さまざまな決まり事を定めた。たとえば、客の連泊を認めない、虚偽の説明を受けて連れて来られた娘は、調査して親元に帰すこと、犯罪者は届け出ること、などの規則が課せられた。
この頃から、貧しい家の娘は遊女になることを知らないまま、遊女屋に売れられることがあったようだ。
その後、さらに江戸市中に遊女屋を置かないこと、江戸市中に遊女を派遣しないこと、服装を華美にしないこと、などの決まりが追加で決められた。
幕府は政策として、遊女街と普通の人々が住む場所を厳密に区別し、未然にトラブルを防ごうとしたのだろう。それは、現在と近いものがある。
江戸幕府は、遊女屋を公的に認めて冥加金(営業免許・特権付与に際して納めた営業税)を得ることが目的だった。しかし、一方で治安などの問題があり、遊郭に厳しい条件を課したと考えられる。
遊郭にとっても、この条件を飲むことで公的に認められ、市場を独占できるので悪い話ではない。ただし、のちにはこうした規則も反故にされ、違法なこともたびたび行われた。この点も、現在と同じである。