樋口尚文の千夜千本 第203夜 『春画先生』(塩田明彦監督)
自由さほとばしる映画の「反転」攻勢
なぜ映画で地震は起こるのか。石井隆『死んでもいい』の真昼の高層ホテルでの、大竹しのぶ、永瀬正敏、室田日出男の愛憎の修羅場での推定震度4くらいの地震。藤田敏八『妹』の古い早稲田の実家で風呂上りの秋吉久美子と林隆三のなにげない語らいの途中での推定震度3くらいの地震。前者では人物たちが平穏な日常を破壊して彼岸に跳んだしるしのように、後者ではヒロインが死せる夫と交信するきっかけとして、大地が揺れる。『春画先生』でも冒頭からいきなり推定震度3強の地震が起こって、立ったまま動けないヒロインの北香那が、研究者の内野聖陽の手もとの春画に釘付けになって異世界へ誘われる。
しかしさらに言えば「なぜともなく」地震が起こったように「なぜともなく」ヒロインがこの春画と、それを愛でる孤独な研究者の世界を愛でるようになったことが肝心なところだ。もともとそこに理由などないのであって、そもそもこの内野聖陽がかつて契りを交わした女性よりも春画を選んだことも「なぜともなく」なのである。そしてあとはひたすら強度の問題になる。当初は微温湯的にほのぼのとした師弟の恋物語の規格におさまる素朴でかわいいヒロインに思われた北香那が、内野への断固たる思いを自認する中盤から、あたかも増村保造のヒロインのようにきっぱりとした意志そのもののような存在になる。もっと言うなら、彼女は映画そのもののように「なぜともなく」ひたすら純な強さだけで動き出すのだ。
このあたりから映画は当初の想定を超えて俄然面白くなるのだが、北香那は内野の願いに忠実であることだけが行動の動機となるので、さまざまな倒錯劇が起こってくる。ここは詳しくはふれないが、時としてそれは彼女と内野との関係を壊しかねない状況さえ含んで来るのだが、その向こうにある内野の満足のためには北は毅然と事にのぞむのである。ここでの北の「愛」についての強烈な純粋さの「超俗」は軽々と「倒錯」さえ受容してみせるのだが、同時に映画自体も自由で開かれたものになってゆく。
すなわち、規格内のユニークな恋物語かと思われた映画にあって、人物たちのありようはまさかの「反転」を繰り返し、終盤には映画はもはや規格外の何ものかに変容している。この自由さが、したたかに映画表現のこわばりを無化してゆく。終盤にラスボスのように現れた最強の某女優まで含めて、最後の最後まで役柄と映画の「反転」は進行する。そのあげくに、内野と北の関係性は当初とはまるで異なったステージに到達しているが、『百萬両の壺』のラストの矢場でなぜか矢が的中してめでたしめでたしとなるように、こうした経緯でなぜかこの二人はうまく行ってしまうのである。それは冒頭の地震がほのめかすように「なぜともなく」の椿事であって、たまたまのことに過ぎない。人生も映画も、全てがそうであるように。近ごろずば抜けて自由で風通しがよく、映画の根本的な荒唐無稽さに由来するユーモアが湧出する傑作である。