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【深掘り「どうする家康」】織田信長は松平元康より上の地位ではなく、対等だったワケ

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」では、織田信長が松平元康よりも上の立場のように描かれていた。今回は、両者の関係が上下だったのか、対等だったのかについて深掘りすることにしよう。

 最初に、少しドラマの内容をおさらいしておこう。松平元康は、幼い頃の2年間を尾張国の織田信秀のもとで人質として過ごした。そこで、図らずも出会ったのが、若き頃の織田信長である。このとき元康は6歳、信長は15歳だった。

 当時の信長は派手好みとして知られ、服装やヘアスタイルが奇抜だった。元康は信長から「俺の白い兎」と言われ、散々にイジメ抜かれる。その後、元康は今川氏のもとに人質として赴くが、このときのトラウマから逃れられなかった様子がうかがえる。

 とはいえ、ここまで記した内容はあくまでフィクションであり、あり得なかった可能性が高い。人質は非常に大切だったので、無下に扱ったり、乱暴に扱ったりすることはなかったと考えられる。あくまで、ドラマをおもしろくするための演出である。

 4回目の大河ドラマでは、元康が信長との交渉に臨んでいたが、明らかに信長を恐れており、信長もまた元康を見下すような態度を取っていた。しかし、常識的に考えると、2人が直接交渉するトップ会談はあり得ない。お互いの取次同士が折衝するのが普通だろう。

 いずれにしても、ドラマは信長=強者、元康=弱者ととらえているが、これは正しい見方なのだろうか。当時、信長は美濃の斎藤氏と敵対する関係にあった。いかに信長とはいえ、斎藤氏と元康を同時に相手をするのは、さすがに大変だった。元康も、信長と戦うのは大変だった。

 そのような事情もあり、信長と元康は同盟を結んだが、それは領土画定というものだった。互いの領土の範囲を確定したうえで、背後を気にすることなく、それぞれが戦いに専念できたのである。つまり、両者の同盟は、片方の条件が悪いという性格のものではなかった。

 永禄4年(1561)以降、信長と同盟を結んだ元康は、今川氏の勢力が及んでいた東三河への攻撃を開始した。こうして両者の戦いは激化した。したがって、ドラマのような信長=強者、元康=弱者という考え方は成り立たないのだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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