徳川家康は堺の商人と結託し、織田信長を討とうとしたのか。ありえません
今回の大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康が堺の商人と結託し、織田信長を討とうとしていた。本当にそういうことが考えられるのか、検討することにしよう。
天正10年(1582)6月2日、徳川家康は堺(大阪府堺市)で茶の湯を楽しんでいたが、織田信長が明智光秀に急襲され、本能寺で自害したことを知ると、すぐさま本国の三河に向けて逃亡した。
一説によると、家康は切腹を覚悟した言われているが、結局は家臣らに宥められて翻意し、伊賀を越えて本国の三河へと帰還を果たしたのである。これが「神君伊賀越え」といわれるものであるが、この話は改めて取り上げることにしよう。
堺の商人は豊富な財力もあり、また堺は鉄砲の産地なのだから、家康が頼ったというのは理解できなくもない。しかし、本気で信長を倒そうとするなら、反信長勢力の諸大名を味方にしなくては話にならないだろう。いずれにしても、家康が堺の商人と結託したという説は、どの史料にも出てこない。
ところで、昔から本能寺の変の黒幕は、堺の商人であるという説があった。平たく言えば、信長に恨みのある堺の商人が光秀を突き動かし、信長を急襲させたということになろう。以下、この説の妥当性について考えることにしよう。
永禄12年(1569)、上洛した信長は堺に対して、服属と矢銭(やせん:軍費)の支払いを要求した。矢銭の額は2万貫というので、現在の貨幣価値に換算すると、約20億円という大金だった。当時、自治都市だった堺の人々は、この要求に驚いた。
堺の人々は信長に矢銭を支払うべきか話し合い、最終的に支払いに応じた。理由は、信長の軍事力を恐れたからである。以後、信長は豪商として知られる今井宗久を登用し、堺の支配を行った。これにより、堺は自治都市としての性格を失ったのである。
それゆえ、堺の商人は信長を恨み続け、光秀の挙兵を応援したというのだが、まったく根拠のない虚説である。堺の豪商の1人が名物の茶器を餌にして、信長を本能寺におびき寄せたといわれているが、こちらも根拠がない妄説である。
本能寺の変については、さまざまな黒幕説があるが、おおむね根拠のないデタラメばかりである。それにしても、今回の家康が堺の商人を頼ったというのは、あまりに史実とかけ離れているが、果たしてこれでいいのだろうか?