戦国武将は、なぜ堺の商人に軍資金を要求したのか
戦争であれ、選挙であれ、軍資金が必要である。かつて自治都市として堺(大阪府堺市)には豪商が数多くおり、戦国武将は堺や堺の商人に軍資金を要求することがあった。それはなぜなのか、考えてみることにしよう。
堺といえば、自治都市として知られており、多くの豪商が財を成していた。室町時代に和泉守護を務めた山名氏清は、堺に守護所を設置した。
堺は瀬戸内海に通じる海路であり、日明貿易の拠点として繁栄するようになった。堺の商人は貿易の実権を握ることにより、財を成すことに成功した。それゆえ、戦国武将は、都市としての堺や堺の商人の財力を頼りにしたのである。
応仁元年(1467)に応仁・文明の乱が勃発すると、遣明船の発着する港は、兵庫(兵庫県神戸市)から堺に変わった。これをきっかけにして、堺商人は台頭し、やがて博多の商人を凌駕することになった。
堺の商人は明に銅、日本刀、硫黄などを輸出し、逆に明から銅銭、生糸、絹織物などを輸入することにより、莫大な利益をあげたといわれている。
戦乱が打ち続くと、室町幕府は堺の財力に目を付け、たびたび軍資金を要求するようになった。長享元年(1487)、9代将軍・足利義尚が近江の六角高頼を討伐する際、堺に2000貫もの軍資金を貸してほしいと要望した。
2000貫とは、今の貨幣価値に換算すると、約2億円である。しかし、堺は貸し倒れを恐れたのか、400貫(約4000万円)に値切ったといわれている。
ともあれ、堺の財力には、目を見張るものがあった。永正3年(1506)、細川政元が阿波に渡海すべく堺に向かったとき、将軍の義澄は政元に帰洛を促すべく堺に赴いた。その際、堺南北荘は6000貫(約6億円)もの資金を提供したという。堺の資金力は圧倒的で、尋常なレベルではなかったのである。
堺ではたびたび紛争が起こったので、大いに住民を悩ませた。明応2年(1493)の明応の政変の際、畠山尚順(政長の子)が堺で軍事行動を起こすと、堺の住民は尚順に10000貫(約10億円)もの金銭を差し出した。堺の住民は堺に戦火が及ばないよう、金銭を提供することで解決を図ったのである。
しかし、その10000貫は、政長配下の木沢氏が商人の紅屋から奪ったものだった。尚順は提供された軍資金で武器を購入し、足軽を雇用することで勝利した。戦争には武器、兵糧、足軽が必要だったので、軍資金は欠かせなかった。そういう意味で、堺の商人は重要な意味を持ったのである。