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「世界津波の日」が国連で決議 「稲むらの火」のモデルはニューヨークで客死

饒村曜気象予報士
和歌山県にある広村堤防

ニューヨークに本部がある国際連合では、日本が中心となって142カ国が共同提案した「11月5日を世界津波の日に制定する」という決議案が委員会で採択され、まもなく本会議で採択される見込みです。

この「11月5日」というのは、安政南海地震のあった安政元年11月5日(1854年12月24日)にちなむもので、東日本大震災後の3ヶ月後にできた「津波対策推進法」によって、日本でも「津波防災の日」となっています。

12月23日加筆 世界津波の日は、12月23日の国連本会議で可決されました。

安政南海地震は「稲むらの火」として知られている

過去に大きな津波に比べ、安政南海地震の津波が特筆されているのは、このときに、「稲むらの火」という、防災に結びつく話があるからです。

11月5日は単に津波被害を受けた日ではなく、津波に立ち向かってわずかでも成果、大きな被害から見ると極めて小さな成果ですが、将来につながる成果を出した日なのです。

安政南海地震のとき、紀州(和歌山)の浜口儀兵衛が稲むらに火をつけ、多くの人を救ったという話は、教員を養成していた師範学校の英語の教科書に使われた小泉八雲の「A Living God」や、尋常小学校の国語の授業で使われていた「稲むらの火」にとりあげられています。

その結果、戦前は、地震が起きたら津波がくるのでより高い所へ逃げるという教育が徹底して行われていました。

浜口儀兵衛は、稲むらに火をつけて人々を救っただけでなく、再来するであろう津波に備え、巨額の私財を投じて広村堤防を作っています。4年間にわたる土木工事の間、女性や子供を含めた村人を雇用し続け、賃金は日払いにするなど村人を引き留める工夫をして村人の離散を防いでいます。また、堤防の内側にハゼの木を植え、堤防を保守する人の手間賃の足しにすることまで考えていました。

安政南海地震から92年後の昭和21年(1946年)12月21日、昭和南海地震が発生し、約30分後に高さ4~5メートルの大津波が未明の広村を襲いましたが、浜口儀兵衛の作った堤防は、村の居住地区の大部分を護っています。

浜口儀兵衛が植えた樹齢20~30年の松は、総数380本、最大の木は周囲14尺(4.2メートル)の鬱蒼とした松林になっていました(写真1)。

写真1 浜口儀兵衛の作った広村堤防(昭和初期)
写真1 浜口儀兵衛の作った広村堤防(昭和初期)

浜口儀兵衛は勉学のためアメリカへ

明治政府の井上馨は大蔵大輔(大臣)として広く人材を集めていましたが、明治4年7月28日に浜口儀兵衛を駅逓正、少し前の郵政大臣(現在は総務大臣の業務の一部)に抜擢しています。

浜口儀兵衛は、民間を中心とした郵便事業を考えていましたが、浜口の部下で洋行帰りの前島密は、それまでの民間を中心とした郵便制度の創始では日本の実情に合わないとして、地方の有力者を巻き込んだ官営路線で郵便制度を発展させています。

浜口儀兵衛の民営路線がうまくいったかどうかはわかりませんが、郵政民営化を大きな旗印に改革を推進した小泉純一郎総理大臣は、浜口儀兵衛が郵攻民営化の先駆けであったということを意識していたと思われます。

というのは、平成14年12月26日にスマトラ地震によりインド洋大津波が発生し、インドネシアやマレーシアなどでは津波により26万人以上の人が亡くなっていますが、各国の首脳に対して、日本には「稲むらの火」という防災教育が行われていると素早くPRしているからです。

浜口儀兵衛はニューヨークで客死

その後の浜口儀兵衛(梧陵と称した)は、揺監時代の明治政府の重要な役職のあと、和歌山県の初代県会議長(現在の和歌山県知事に相当)になるなど、家業を守り、国や地方の発展に尽くしています。

明治17年5月30日、65歳になった浜口梧陵は、若い時からの念願だった学問を学ぶため、横浜港からシテイ・オブ・トウキョウ号に乗ってアメリカに向かいます。

若い時から学問好きの浜口儀兵衛は、貧しくとも勉学に励んでいた勝海舟に資金援助を行ったりしていましたが、自身は家業である醤油業の発展のため、国や地方の発展のために勉学の時間がとれないでいました。それがようやくとれたのです。

6月にサンフランシスコに到着した浜口梧陵は、各地を歴訪し、10月下旬からニューヨークに滞在していますが、そこで体調を崩しています。

周囲の人々は帰国を勧めますが、「どうせ死ぬなら、どこで死んでも日本へ帰って死んでも同じことだ。むしろ欧州に行って死んだほうがいい(「浜口梧陵小伝」より)」と言ったといわれています。

そして、翌年4月21日、波乱に満ちた生涯をニューヨークで終わります。行年66歳、アメリカ医師の診断書では、腸の下方の瘤を生じたものでした。

浜口梧陵の最後の写真は、10月20日にカリフォルニア州をたってニューヨークに向かう途中、ナイアガラの滝のところで撮影されたものとされています(写真2)。

写真2 ナイアガラの滝を前にする浜口儀兵衛
写真2 ナイアガラの滝を前にする浜口儀兵衛

国連の「世界津波の日」制定によって、「稲むらの火」にも脚光があたりましたが、そのモデルとなった浜口儀兵衛(梧陵)にも再評価が必要と思います。

「津波防災の日」の認知度を上げる

平成23年3月11日の東北地方太平洋沖地震による津波により多くの人の命が失われました。東日本大震災の発生ですが、このとき、もし皆が、より高い所へ逃げていれば、もっと数多くの命が助かったのではないかと思います。国民の間に広く津波対策についての理解と関心を深めるようにするため、11月5日「津波防災の日」となりましたが、国民の認知度は残念ながら高くありません。

「世界津波の日」が制定されたのを機会に、日本の「津波防災の日」の認知度を上げるのが、防災・減災につながると思います。どのようなことであれ、災害の教訓を忘れないといっても、自然のサイクルは私たちの一生より長いので、その教訓を活かすのは、ほとんどが孫の代、あるいは、さらに孫の代のことです。

このため、重要なのは継続で、いろいろな人がいろいろな場面での行動が重要となってきます。

例えば、テレビで活躍しているお天気キャスターが毎年行っている「11月5日は津波防災の日であることを思いだし、過去の教訓を今後に生かす日」というイベントが広がればと思います。

特に、自然現象に造詣が深く、信用がおける人と皆が思っている人々の行動に対しては、「よくわかった」から一歩進めて、「よくわかったので、自分もやってみよう」ということにつながる説得力があります。

写真の出典:杉村広太郎編(1934)、浜口梧陵小伝、浜口梧陵翁五十年祭協賛会。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2024年9月新刊『防災気象情報等で使われる100の用語』(近代消防社)という本を出版しました。

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