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【深掘り「どうする家康」】今川家の人質時代の竹千代は、イジメ抜かれていたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、竹千代のイジメ抜かれた姿が描かれていた。今川家の人質時代の竹千代は、本当にイジメ抜かれていたのか、深掘りすることにしよう。

 天文11(1542)、竹千代(のちの徳川家康)は松平広忠と於大の方の子として、岡崎城(愛知県岡崎市)で誕生した。於大の方の父は、三河国の水野忠政であり、ともに今川氏に従っていた。

 当初、水野氏と松平氏は婚姻を通して、強い協力関係を結んでいた。しかし、天文12年(1543)に忠政が没すると、跡を継いだ子の信元は、織田方に寝返ったのである。

 それゆえ、今川方に止まった広忠は、もはや水野氏と同盟関係を保つことができなくなった。同盟関係の破綻は、そのまま婚姻関係の解消につながる。広忠は於大と離縁し、国元へ返したのである。

 天文18年(1549)に広忠が没すると、今川義元は岡崎城を自らの管理下においた。やがて、竹千代は岡崎から駿府に移ると、19才まで「三河の小せがれ」と罵られ、同地で過ごすことになったという。

 岡崎から駿府へと送られた竹千代は、どのような生活を送っていたのだろうか。竹千代がいた駿府の具体的な場所は、少将の宮の町(『三河物語』)、宮の前(『松平記』)、宮ヶ崎など、諸書によってさまざまである。

 幼い竹千代は、太原雪斎から学問を授けられ、祖母・於富から手習いを学んだという。ただ、いずれも近世の編纂物に記されたもので、史実か否か検討を要する。おそらくフィクションだろう。

 また、竹千代は安倍川の印地打(石合戦)を見て勝負を予言するなど、将来の片鱗をうかがわせる逸話を残しているが、こちらも創作の匂いがする。つくり話と考えてよいだろう。

 竹千代は14歳のときに元服すると、今川義元の一字を与えられて「元信」と名乗った。その2年後には、今川氏縁者の関口氏純の娘・築山殿を妻として迎えた。

 一説によると、幼い竹千代は厳しい生活を送ったので、我慢強くなったという。

 しかし、今川氏にとって、竹千代は同盟の証の大切な人質だったので、イジメ抜くなどありえないと考えられる。ましてや、元服や婚姻の状況を見ると、比較的手厚いものがあったと考えてよい。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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