原子力発電と社会は分断を進めてはならない「東京電力旧経営陣、強制起訴裁判の判決を受けて」
2019年9月19日、東京電力旧経営陣に対する強制起訴について無罪判決が出された。
筆者は事故当時、東京電力の社員であった。原発事故の中心地域の福島県双葉郡に暮らしていた。当時は福島第二原子力発電所に勤めていたが、裁判で明らかになっていった津波に対する知見やそれに対する対策の妥当性が社内で議論されていた頃は、福島第一原子力発電所に勤務をしていた。
その立場から、今も後悔の念を抱き続けている。
私自身が津波を予見出来ず、対策を講じるような提案を社内で出来なかったこと、そして原発事故により、あがないようがないほどの結果を生んでしまったことに、自らの至らなさを痛感し、過ちを犯したという思いだ。
その至らなさと過ちの根幹にあったことは何か。それを今も自分に問い続けている。
東京電力を退職し原発事故被災地域をフィールドとしながら、地域で暮らす人達と福島第一原発を題材とした取組を続けてきたことで見つけた答えがある。
それは公衆の衛生と安全という共通の目的を持って、原子力発電を預かる人達と社会とがコミュニケーションを取ることの重要性だ。
堅苦しい文言を言い換えれば「次の世代のことも考え、誰もが幸せになれていること・自然環境にとっても良き状態を目指し、原子力発電所というものを、預かる人達だけでなく見守る人達も含めて考え続けること」を指す。
原発事故の社会への影響度合いは社会との繋がりの深さを示している。原子力発電が持つ「ちから」は大きい。社会にとって安全でなければならないからこそ、社会側の視点をも持って安全のあるべき姿が決められていくには、繋がりが無ければ成り立ち得ない。
それは何をもって成されているかと言われれば、対話が出来ている状態、お互いを尊重し合える関係性が醸成されていく状態があることを指すはずだ。
・原子力発電所は社会に何故あるのか。
・無くすことで何を失うのか、得るのか。
・原子力安全なるものを原子力業界のみの主観で決めず、客観的指標を持って管理し機能することをどの様に作りあげるのか。
・役目を終えた原子力発電所の落とし前(廃炉)はどの様にあれば良いのか。
東京電力福島第一原子力発電所事故が生んだ社会へのこれらへの問い直しは、それは8年半経った今、どの様な形で残り続けたのだろうか。
これからを考えるきっかけに
東京電力旧経営陣に対する強制起訴の判決から一夜が明けた。
当たり前の過ちを認め、直さなくてはならないものを進めていくことは司法の判断結果で揺らぐことはないはずだ。
分断を加速してはならない。
裁判がそうしたきっかけへと繋がり、東京電力旧経営陣と被災した人達だけの問題で終わらせないことが
社会全体や個人が見つめ直す「問」であると扱われていくことに繋がり、原発事故そのものへの清算や責任の在り方、原発事故後の社会が成熟性を有していくことに繋がっていくのではないだろうか。