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月曜ジャズ通信 ヴォーカル総集編vol.4

富澤えいち音楽ライター/ジャズ評論家

<総集編>では、月曜ジャズ通信で連載している「今週のヴォーカル」だけを取り出して、アナタのジャズを広げられる出逢いが詰まったヒントになるようお送りします。

♪ラインナップ

メル・トーメ

トニー・ベネット

ダイナ・ワシントン

ローズマリー・クルーニー

執筆後記:ナジェージダ・プレヴィツカヤ

ヴォーカル総集編vol.4
ヴォーカル総集編vol.4

※<月曜ジャズ通信>アップ以降にリンク切れなどで読み込めなくなった動画は差し替えるようにしています。

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●メル・トーメ

一貫してジャズ・シンガーであることにこだわった唯一無二の存在。それがメル・トーメという至高のヴォーカリストへの評価です。

1925年に米シカゴで生まれたトーメは、4歳にしてレストランのステージで歌を披露して“歌手デビュー”。7歳からドラム、14歳からピアノを習得して、ソング・ライターとしての活動も始めます。

15歳のときに書いたというオリジナル曲「ラメント・トゥ・ラヴ」は、いくつかのプロの楽団が取り上げています。

このほかに有名なものは、「クリスマス・ソング」「ボーン・トゥ・ビー・ブルー」「カントリー・フェア」「ア・ストレンジャー・イン・ザ・タウン」といったところでしょうか。

トーメが最初に歌手として注目されたのは、1944年に結成したコーラス・グループ“ザ・メルトーンズ”でのこと。

初期はフレッド・アステアを思わせるスタイルで人気を博しますが、徐々にその“ヴェルベット・フォグ=ヴェルベットの霧”と形容された声の魅力に注目が集まります。

1947年にはソロ活動を開始、1950年代になると、西海岸ジャズのリーダー的存在だったマーティ・ペイチとのコラボレーションで、本格的ジャズ・シンガーの地位を不動のものにしました。

♪Mel Torme-Blue Moon

シンガー・ソング・ライターとしてのメル・トーメの名声を築いた初期の傑作です。

♪Mel Torme- Dat Dere (Live)

ジャズ編成で朗々と歌うメル・トーメもいいものです。彼は自分の声のことを“フォグ”と言われるのを嫌っていたそうですが、それはおそらく、個性で歌をねじ伏せるのではなく、歌と裸の自分を対峙させたいというジャズ的なアプローチにこだわっていたからなのだと思うのです。

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●トニー・ベネット

現役ナンバー・ワンのジャズ・シンガーという称号に異論はないでしょう。

2011年リリースのアルバム『Duets II』ではマライア・キャリーやレディ・ガガたちとデュエットを披露して、自身初となるビルボード・チャートの初登場1位を獲得。2013年に東京JAZZへ出演してその美声が健在であることを示したのも記憶に新しいところです。

1926年にニューヨーク州クイーンズのイタリア系移民のエリアで生まれたベネットは、学生時代は商業デザイナーをめざしていましたが、兵役中に歌に目覚め、除隊後に歌手として活動を始めました。それが人気コメディ俳優ボブ・ホープの目に留まり、全米を回る興行に同行して人気を博すようになり、大手レコード会社と契約して一躍人気歌手の座に躍り出ました。

なかでも1962年にリリースした「I Left My Heart in San Francisco(邦題:思い出のサンフランシスコ/霧のサンフランシスコ)」は世界的なヒットを記録して、彼の名を不動のものにしました。

トニー・ベネットは自分を“ジャズ・ヴォーカリスト”ではなく“ストーリー・テラー”と称していたそうです。これはメロディと詞によって1つのイメージを浮かび上がらせるのではなく、言葉を追っていくうちにどんどん場面が展開していくスタイルを用いていたことに関係していると言われています。

こうしたアプローチはジャズ的でもあり、彼が好んでジャズ・ミュージシャンと共演していることにつながっています。

♪Bill Evans with Tony Bennett on Johnny Carson's Tonight Show

トニー・ベネットとビル・エヴァンスの共演は、“ピアノの伴奏でジャズ・スタンダードを歌う”という固定観念を打ち破り、ジャズ史に残る名盤となりました。1975年リリースの『トニー・ベネット&ビル・エヴァンス』と1976年リリースの『トゥゲザー・アゲイン』はぜひ聴いてみてください。

この映像は、1975年に2人が出演したテレビ・ショーを織り交ぜたドキュメンタリーの一部。演奏は少ないですが、貴重な証言を聞くことができます。

♪Diana Krall- I've Got The World on a String

エルヴィス・コステロが進行役のテレビ・ショーにトニー・ベネットが出演。すると客席にいたダイアナ・クラールを引っ張り上げ、急遽共演という嬉しいハプニング映像です。

ダイアナ・クラールは2000年にトニー・ベネットと20都市のジョイント・ツアーを敢行し、2006年10月リリースの『デュエッツ:アメリカン・クラシック』にも参加しています。ちなみにエルヴィス・コステロと結婚したのは2003年。イントロを弾き始めたところで「私のお腹のなかには双子がいて、6ヵ月なの」と言っているので、この収録が2006年8月ごろだと推測され(12月に出産)、リリース前にギリギリ間に合わせたプロモーションだったのかもしれませんね。

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●ダイナ・ワシントン

ダイナ・ワシントンは“ブルースの女王”という異名をもちR&Bチャートを賑わせたこともあって、ジャズ・シンガーとしての評価が高いとは言えないかもしれません。

しかし、御三家の“エラ・サラ・カーメン”がアフリカン・アメリカンらしからぬ“美声”だったのに対して、彼女はブルース味たっぷりの声質で、それを愛するヴォーカル・ファンが多いのも事実。

同じ系列の声質だったビリー・ホリデイのレパートリーが狭かったのに比べ、彼女はなんにでもチャレンジして歌いこなしてしまっていたのも好感がもたれる要素になっているようです。

そんな陽気で前向きに思えるダイナですが、実生活では8回の結婚と7回の離婚を経験し、39歳の若さでアルコールと薬物(睡眠薬とダイエット薬)の過剰摂取で死に急いでしまいました。そんな人生がまた、彼女が歌ったブルースそのものだと思う人も多かったのではないでしょうか。

♪Dinah Washington- All of Me

1958年にニューポート・ジャズ・フェスティヴァルに出演した際のステージ映像です。ヴィブラフォンはテリー・ギブス、ドラムがマックス・ローチ、ピアノがウィントン・ケリーという豪華な面々で、歴史に残るパフォーマンスを披露しています。

♪Lover Come Back To Me / Dinah Jams

1954年『Dinah Jams(ダイナ・ワシントン・ウィズ・クリフォード・ブラウン)』からの1曲。クラーク・テリー、クリフォード・ブラウン、メイナード・ファーガソンというスーパー・トランペッターが次々に超絶ソロを披露して、それに負けないメロディをダイナが歌うという、夢の共演です。

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●ローズマリー・クルーニー

ローズマリー・クルーニーは、1950年代のアメリカのヒット・チャートを賑わせた“名花”のひとりです。

当時、彼女のように歌に映画にと活躍する“名花”は多く登場したのですが、ローズマリー・クルーニーはジャズ・シーンでの評価がとくに高いのが特徴です。その原因は、ジャジーな“声”にあるんじゃないでしょうか。

1928年に米ケンタッキー州メイズヴィルで生まれた彼女の幼少期はあまり幸せなものではなく、13歳のときに母親は彼女と妹をアルコール依存症の父親の元に残して出ていってしまいます。その父親も17歳のときに失踪してしまい、仕方なく姉妹でラジオ向けのオーディションを受け、歌手として生計を立てる道を選びました。

姉妹が結成したクルーニー・シスターズは1946年からトニー・バスター楽団の専属を務めましたが、数年後にはユニットを解消。ミッチー・ミラーに認められたローズマリーは、21歳のときにニューヨークへ拠点を移すことになります。この決断の結果はほどなく現われ、1951年に「Come On-a My House(家へおいでよ)」が全米ヒット・チャート1位を獲得、スポット・ライトの中央に躍り出ました。

そして、1950年代は世界的なヒットを連発、映画やテレビ・ドラマ、バラエティ・ショーなどへの出演が目白押しとなり、“国民的アイドル”として忙しい毎日を送っていました。

1960年代に入ると、ヒット・チャートの上位はロック勢によって占められるようになり、彼女の人気にも陰りが見えてきます。仕事は途切れなかったにもかかわらず、これを気に病んだ彼女は薬とアルコールに頼るようになり、1970年代前半はほとんど消息もつかめない状態になってしまいます。

一説に、ロバート・ケネディが暗殺されたロサンゼルスのアンバサダー・ホテルに彼女も大統領指名選の応援で居合わせたことが引き金になったと言われています。

失意の彼女に手を差し伸べたのは、映画「ホワイト・クリスマス」(1954年)でも共演していたビング・クロスビー。

1975年にシーンに復帰すると、精力的にコンサートやアルバム制作を展開しました。ただし、その体形は“国民的アイドル”時代の3倍ほどにも膨れ、面影はありませんでしたが……。

2002年にはグラミー賞を受賞しましたが、2月の授賞式には肺がんの治療中で出席できず、6月にビバリーヒルズの自宅で息を引き取りました。

ちなみに、俳優のミゲル・フェラーは最初と2度目の結婚相手だった俳優のホセ・フェラーとのあいだにできた子息、俳優のジョージ・クルーニーは母親が家を出るときに連れていった弟の子息、つまり甥にあたります。

♪Come On-A Our House !

ローズマリー・クルーニーの名声を決定づけた「家へおいでよ」です。いや、“カモナマイハウス”と言ったほうがわかりやすいかも。チャキチャキという表現がふさわしいキレのある歌い方が、リズミックなラテン調のメロディにピッタリだったことが、成功の要因ではないでしょうか。

♪Rosemary Clooney- Mambo Italiano

こちらもヒットを記録したナンバー。こういう小股の切れ上がったような歌い方ができる人は少なかったことも、彼女の高い評価につながっていると思います。もちろん、シットリとしたバラードも絶品ですので、探して聴いてみてください。

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富澤えいち『頑張らないジャズの聴き方』
富澤えいち『頑張らないジャズの聴き方』

執筆後記

<月曜ジャズ通信 ヴォーカル総集編vol.3>の執筆後記で、鈴木正美著「ロシア・ジャズ」で知った20世紀初頭のロシア大衆音楽を代表する歌手、アレクサンドル・ヴェルチンスキーを取り上げました。

彼の音源を聴いてみるとジャズというよりはフランスの大衆音楽=シャンソン寄りであるという感想を添えましたが、同じ時期にロシアで絶大な人気を博していた歌姫は、少し趣が違ったようです。

彼女の名はナジェージダ・プレヴィツカヤ。

数奇な運命をたどっていますので、興味のある方はネットで検索してみてください。

♪Rachmaninoff plays Traditional/Rachmaninov "Powder and Paint" with Nadejda Plevitskaya

シャリャーピンや皇帝ニコライ二世もファンだったというプレヴィツカヤ。ロシア革命後の1919年に亡命し、パリを拠点に世界を巡業して、その魅力を広めました。

1925年にはニューヨークでラフマニノフを訪問。彼女が歌ったロシア民謡をもとに、ラフマニノフは「私の白粉よ、頬紅よ」(「三つのロシアの歌」の第3歌)を作り、彼女の歌で録音。

彼女のブルーな歌と、国民楽派と呼ばれたラフマニノフのメロディを耳にすると、ジャズに近いものを感じるのはボクだけではないと思うのですが。

富澤えいちのジャズブログ⇒http://jazz.e10330.com/

音楽ライター/ジャズ評論家

東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。2004年『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)、2012年『頑張らないジャズの聴き方』(ヤマハミュージックメディア)、を上梓。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。2022年文庫版『ジャズの聴き方を見つける本』(ヤマハミュージックHD)。

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