月曜ジャズ通信 ヴォーカル総集編vol.3
ヴォーカル総集編の3回目です。
今回は男性ジャズ・ヴォーカリストの“ビッグ4”とも言うべき、偉大なエンターテイナーたちを取り上げます。
♪ラインナップ
ルイ・アームストロング
ビング・クロスビー
フランク・シナトラ
ナット・キング・コール
執筆後記:アレクサンドル・ヴェルチンスキー
※<月曜ジャズ通信>アップ以降にリンク切れなどで読み込めなくなった動画は差し替えるようにしています。
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●ルイ・アームストロング
“ジャズとはなにか”を考えるとき、いちばんのヒントを与えてくれると思っているのが、サッチモことルイ・アームストロングの存在です。
彼は“黎明期のジャズ・ミュージシャン”というだけではなく、ルイ・アームストロングがいたからポピュラー音楽はジャズという特殊なスタイルの音楽として認められた――と言っても過言ではありません。
そもそも彼は、レコード・デビューの瞬間から“ジャズだった”ことがそのエピソードから伝わってくるのです。それは1926年2月26日のこと――。
スタジオに現われたルイは、いくつかの曲をコルネットで収録する予定でしたが、その“事件”は「ヒービー・ジービーズ」のときに起きました。まずワン・コーラスを歌詞どおりに歌った彼は、2番で歌詞ではなく意味のない言葉を発したのです。この「シャバダバ」という声が、“スキャットの誕生”として記録されることになりました。
ルイが録音中に歌詞カードを落としてしまったことが、スキャットで歌わなければならない事態に至った理由という説もありますが、ボクはそうは思えません。
予算の少ない黒人ミュージシャンのレコーディングという状況では何度も録り直すのがはばかられ、歌詞を忘れたとしても続行させるということはあったのかもしれませんが、実際の「シャバダバ」は歌詞を見失ったというにはあまりに堂々としすぎていて、しかも彼のコルネット演奏のアプローチにちゃんと準じた音楽的なものになっていたからです。
また、バンド・メンバーも、ルイがレコーディング前から意味のない言葉でトランペットと同じようにアドリブをしようと練習していたことを証言していますので、確信犯だったことはまず間違いないでしょう。
以後、スキャットは歌うこととジャズをつなげる重要な要素のひとつになりました。
ジャズでは“歌を歌う”ことよりも“歌を演奏する”ことのほうが重要だと、ルイ・アームストロングが教えてくれたというわけです。
♪Jazz Video- Billie Holiday & Louis Armstrong- Dixie Music Man
1947年にアメリカで公開されたミュージカル映画「ニューオーリンズ」の一場面です。ニューオーリンズ・ジャズをバックにメンバー紹介をしながら、最後に「私はサッチモ、ルイ・アームストロングですよ、お見知り置きを!」と締め括ってコルネットを吹き始める姿は、さながらヒップ・ホップのMCを先取りしたようなパフォーマンス。そういう意味でも彼は“元祖”的な存在なんですね。
♪What a wonderful world- LOUIS ARMSTRONG
アメリカ軍がベトナムに対して大規模な軍事介入を始めた1960年代半ばの情勢を憂慮し、ジョージ・ダグラス(音楽プロデューサーのボブ・シールのペン・ネーム)とジョージ・デヴィッド・ワイスが作ったのが「この素晴らしき世界」。1968年にルイが歌ってメガ・ヒットを記録しましたが、1987年公開の映画「グッドモーニング、ベトナム」で印象的なシーンに挿入曲として使われたことで、不滅の名演の座を獲得した感があります。
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●ビング・クロスビー
男性ジャズ・ヴォーカル界だって、女性に負けず劣らずスーパー・スターを輩出しています。
まずは、そのなかのトップ5とボクが思っているヴォーカリストたちを順に紹介していきましょう。
筆頭を務めてもらうのは、ビング・クロスビー。
1903年米ワシントン州タコマ生まれ。イングランド系の父とアイルランド系の母のもとに生まれたホワイト(白人)です。
ルイ・アームストロング(公式生年1901年)とほぼ同年代の彼もまた、高度経済成長に沸くアメリカでエンタテインメントの世界をめざし、1926年にロサンゼルスでポール・ホワイトマン楽団の一員に。翌1927年には男性3人組コーラス・グループ“リズム・ボーイズ”のメンバーとして売り出しました。
ポール・ホワイトマンは、1920年代初頭にクラシック畑からポピュラー音楽の世界へ転身してシンフォニック・ジャズというムーヴメントを巻き起こし、“キング・オブ・ジャズ”の称号を与えられた人。1924年にニューヨークで開催した「オール・アメリカン・ミュージック・コンサート」では、ジョージ・ガーシュウィン作の「ラプソディ・イン・ブルー」を自ら結成した楽団で発表しています。
クロスビーが加わったホワイトマン楽団は、彼の独特の歌い方で話題を博します。具体的には、それまでの歌手が声量たっぷりの朗々とした歌い方だったのに対して、クロスビーはハナにかかった声で滑らかに歌うというもの。この“クルーナー”と呼ばれるスタイルによって一世を風靡しました。
やがてリズム・ボーイズはホワイトマン楽団から独立しますが、1931年にはソロで「アイ・サレンダー・ディア」がヒットしたことから、ビング・クロスビー個人としての活動を本格的にスタートさせます。
折しもアメリカではラジオが普及し、音楽番組は国民的な娯楽のひとつとして圧倒的な支持を得るようになっていた時期。「ビング・クロスビー・ショー」は大人気を博して、その地位を不動のものとしました。
1940年代には映画界にも進出し、ハリウッドのトップ・スターとしても君臨。
歌手としては、全米ナンバー・ワンのヒット曲が13タイトル、なかでも1942年にリリースした「ホワイト・クリスマス」は、いまだにクリスマス・シーズンの彩りに欠かせない名唱として売れ続けています。
♪Bing Crosby- White Christmas
1942年公開(日本公開は1947年)の映画「スウィング・ホテル」の主題歌で、現在までに累計5000万枚に迫る売上げを記録している永遠の名唱。
♪Bing Crosby- Young At Heart
クルーナー・スタイルの真骨頂は、エンディングの手前でグッと盛り上がってから、スッと力を抜いて語りかけるように決めゼリフをつぶやくところなんじゃないでしょうか。この動画を見ると、ファンが熱狂したのも無理はないですね。
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●フランク・シナトラ
いまだにカラオケ・スナックでは「マイ・ウェイ」を熱唱する熟年世代が後を絶たないようですが(いえ、決してボクのことではありませんよ)、それほどのポピュラリティを得ているだけに、フランク・シナトラを“ジャズ・シンガー”とするには抵抗がある人もいるようです。
もちろん、彼が頭角を現わした1930年代のアメリカではポピュラー音楽=ジャズであり、その後は同様のニュアンスが音楽自体の多様化とシナトラ自身の意識の変化によって変わったことは否めません。
それでもなお、前回の<月曜ジャズ通信>でも取り上げたビング・クロスビーに憧れて歌手を志したという根本的な動機や、ジャズに学んだと思われる応用力など、フランク・シナトラとジャズを結びつける“絆”は決して弱くないと感じているので、改めて彼のスゴさをたどってみたいと思います。
生まれたのは1915年、ニューヨーク市に近い街のイタリア系移民のコミュニティの一員として幼少期を過ごします。この出自が後にイタリア系マフィアとの関連を取り沙汰される要因になるわけですが、彼が育った環境が彼に人生を歌に託すことができるだけの深い表現力を与えることになったのは確かでしょう。
20代になるとヴォーカル・グループに参加してラジオ出演や全米ツアーを経験し、1939年には人気トランペッターのハリー・ジェイムス率いる楽団ミュージック・メイカーズの専属歌手に抜擢されて、本格的なプロ・デビューを果たします。ただ、このバンドでは(<月曜ジャズ通信 2014年1月27日 構えあって構えなしお構いなく号>http://bylines.news.yahoo.co.jp/tomizawaeichi/20140127-00032041/の「今週のスタンダード:オール・オア・ナッシング・アット・オール」でも触れましたが)リーダーとそりが合わなかったようで、彼の特徴だった甘く滑らかな歌い方には注目が集まったもののシンガーとしてのブレイクにまでは至らず、大活躍となるのは1940年に人気トロンボーン奏者トミー・ドーシーの楽団に引き抜かれて以降となります。
とくに第二次世界大戦下では慰問部隊の一員として全米や欧州を回り、まさに“国民的”な人気を博する存在になります。
終戦で状況が落ち着くと世の中のシナトラ熱も沈静化し、1950年にはノドの疾患で声が出なくなるなどの苦しい時期を過ごしますが、1953年に脇役で出演した文芸映画「地上より永遠に」でアカデミー助演男優賞を獲得し、再び脚光を浴びると、ジャズ・スピリットと立体的な表現、そして深いエモーションの3要素をバランスよく融合させた独自の世界観を見せ、円熟の極みに達した歌声で人々を魅了するようになりました。
1950年代は、エルヴィス・プレスリーの登場に象徴されるように音楽シーンの“軸”が大きく変化する時期でもありましたが、シナトラはロックンロールに擦り寄ることもなく、逆に自身のスタイルを守ることで従来のファンの支持をさらに高めていったという、興味深い現象も引き起こしています。
♪フランク・シナトラ = トミー・ドーシー楽団時代
1940年代のシナトラの歌唱です。マイクロフォンの効果を利用した“耳元で囁くような”歌い方で注目を浴びた彼独特のスタイルがよく伝わってきます。
♪Frank Sinatra-' Night And Day'
1957年のテレビ・ショーに出演している映像です。1940年代の歌い方とはかなり変化して、すでに“シナトラ節”を確立していることがよくわかります。
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●ナット・キング・コール
“アフリカン・アメリカン×ヴォーカル×ダミ声”という問いに対してルイ・アームストロングが正解だとすれば、“アフリカン・アメリカン×ヴォーカル×美声”の正解はナット・キング・コールとしなければなりません。
1919年に米アラバマ州モンゴメリーで生まれたナット・キング・コールは、母の影響でオルガンを習い、1930年代になるとピアニストとして活動を始めました。
当初は旅回りのレヴュー劇団専属の楽団で指揮者をしていましたが、ツアー中に資金持ち逃げ事件にあってしまい、仕方なく旅先で生活費を稼ぐために仲間とバンドを組んでナイトクラブに出演することにします。ところが予定していたメンバーがまたまた逃げてしまい、やむなくドラムのいないバンドで出演したところ、これが大当たり。ピアノ+ギター+ベースというフォーマットは、以降のジャズ・トリオのスタンダード=基準として確立、彼はそのオーソリティとして名を残すことになったのです。
こうしてピアニストとしての名声を高めていく一方で、世間は彼の美声にも注目するようになります。ブレイクしたのは、彼が自身のトリオをバックに歌った「ストレイトン・アップ・アンド・フライ・ライト」で、1944年の大ヒット・ナンバーに数えられています。
1950年代以降はジャズに限らない曲にも挑戦し、「モナリザ」「スマイル」「L-O-V-E」などはいまでも世界中の人々に愛聴されています。
♪Nat King Cole & The King Cole Trio- Straighten Up And Fly Right
ジャズ・シンガーとしてのブレイクのきっかけとなった曲です。コーラスを配してヴォーカリストのレコーディングとは趣向を変えていますが、後の歌唱を彷彿とさせる名調子と言えるでしょう。間奏のピアノが光っているのは言うまでもありません。
♪Nat King Cole, Unforgettable
イントロなしでいきなりこのスローなバラードを歌い出す技量は、やはりピアニストとして磨いたセンスの賜物だったのでしょうか。この曲は1991年に彼の愛娘のナタリー・コール(<月曜ジャズ通信 2014年1月20日 冬晴れゲロッパ絹の靴下号>http://bylines.news.yahoo.co.jp/tomizawaeichi/20140120-00031804/でもピックアップしました)がオーヴァー・ダビングによってヴァーチャル・デュオに仕立て直したことでも話題になりました。
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執筆後記
最近読んでおもしろかったのが、鈴木正美 著「ロシア・ジャズ」という本。東洋書店発行の“ユーラシア・ブックレット”という薄い小冊子シリーズのひとつです。
ロシアには“エストラーダ”と呼ばれたバラエティ・ショーが存在していて、1910年代には一般化してそこから国民的なスターが出ていたそうです。
これはジャズのルーツと言われている“ミンストレル・ショー”とも関連していて、“エストラーダ”はロシアにおけるジャズの“揺りかご”になっていたようなのですね。
“エストラーダ”を代表するスターにアレクサンドル・ヴェルチンスキー(1889〜1957)という人がいます。彼の音源を探してみると、ありました。
♪Vertinsky- V bananovo-limonnom Singapure
“エストラーダ”の音楽は、ジャズ的な要素よりもフランスのシャンソンやロマ音楽を色濃く反映していると言われ、ヴェルチンスキーの音源もそれを感じさせます。
彼は1910年代の前半に“エストラーダ”の舞台に立ち始め、ロシア革命後の1918年には亡命して1920年代のアメリカのエンタテインメント業界も経験しています。
つまり、ヴェルチンスキーの歌には男性ジャズ・ヴォーカルのルーツ的な要素があるのではないかと思うのです。
さて、聴いてみて、皆さんはどう感じたでしょうか?
富澤えいちのジャズブログ⇒http://jazz.e10330.com/