【光る君へ】平安時代の人々は、なぜ「穢れ」を恐れたのか。藤原道兼による殺人事件を考える
大河ドラマ「光る君へ」の第1話は、非常に衝撃的な展開だった。ドラマの中の藤原道兼は非常に粗暴な人間として描かれているが、こともあろうに「まひろ(紫式部)」の母を殺害し、その返り血を浴びていた。道兼は殺害後、そのまま自邸に戻り、その様子を三郎(藤原道長)も見ていた。
むろん、道兼が「まひろ(紫式部)」の母を殺したというのは、ドラマ上のフィクションである。しかし、道兼が返り血を浴びたまま自邸に帰るというのは、今一つ合点がいかないところだ。
第2話では、道兼の父の兼家がその事実を知っていたというのだから、なおさらである。というのも、当時は「穢れ」に対する観念が発達していたので、道兼がそ知らぬふりをしているというのは、ちょっとおかしいのである。
「穢れ」とは、「不浄」、「汚穢(おわい)」ともいい、わが国における禁忌に関する観念の一つである。主たる「穢れ」は、出産、月経、葬送、人の死にまつわるもので、穢れた者が神社に参詣すること、祭祀に参加することは禁止された。
このほか「穢れ」には、家畜の死や病気なども含まれていた。もちろん、そうしたことに関わった者は、朝廷への出仕も拒まれた。したがって、道兼が何事もなかったかのように、朝廷に出仕していれば大問題である。
出産、月経、葬送に関わった者は、産屋、喪屋、月経小屋などに隔離された。穢れた者は隔離されると同時に、穢れたことを忌んで、ほかの人と煮炊きする火を別にしたのである。
こうして穢れた者は、いったん人々から隔離されるが、一定の期間を経ることで清浄化し、社会復帰を果たしたのである。なお、「穢れ」は仏教の本場のインドや中国にはなく、日本独特の観念だった。
「穢れ」には、出産が含まれていると述べたが、そうなると詮子が円融天皇の子を宿したことが問題になろう。天元3年(980)6月1日、詮子は第一皇子の懐仁親王(のちの一条天皇)を産んだ。もちろん、詮子は「穢れ」のことがあるので、実家の東三条殿で出産した。
今でも里帰りして出産することはあるが、意味はまったく違うのである。ところで、詮子は後継者たる子を産んだにもかかわわらず、円融天皇の后になることができず、その座には遵子(関白藤原頼忠の娘)が就いた。
ついでに言うと、兼家は道兼が殺人事件を犯したことを知っており、口封じのため道兼の従者を殺害したという場面があった。むろん、兼家は自分で直接手を下したのではなく、誰かにやらせたのだろう。道兼が「まひろ(紫式部)」の母を殺害したのは史実と認めがたいので、兼家が従者を殺害したというのも史実ではない。